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認知症当事者には薬だけでなくアートも必要!?――対話型鑑賞プログラム「アートリップ」【後編】

絵の中に入っていく。人生が変わるような鑑賞経験

美術館で行うメリットは、ハレの場所への外出の機会ができることや、筆跡などアーティスト自身の手の痕跡を目の当たりにできることだ。実際に6月17日、大田区立龍子記念館で、林さんがコンダクターを務めたアートリップを取材した。
日本画界の巨匠・川端龍子の3作品を鑑賞しながらさまざまな意見が飛び交う。終了後もすぐに帰らず展覧会を楽しむ参加者たちの姿に驚かされた。

「認知症の方と絵を見るのは楽しいし、気づきを与えてくれます。彼らは直感力の鋭い“察する”人。わかったふりや見せかけやごまかしは一切通じず、素で向かい合ってつながるものがあります」と林さん。

アートリップ「川端龍子の作品でめぐるアートの旅」より、《使徒所行讃》(写真上)、《爆弾散華》(下)を対話しながら鑑賞。大田区立龍子記念館にて 撮影/筆者
アートリップ「川端龍子の作品でめぐるアートの旅」より、《使徒所行讃》(写真上)、《爆弾散華》(下)を対話しながら鑑賞。大田区立龍子記念館にて 撮影/筆者

「認知症のある方は絵の中に入っていくような見方をしますね。例えば以前、ピエール=オーギュスト・ルノワールが少女を描いた《すわるジョルジェット・シャンパルティエ嬢》を見て、描かれた少女に向かって『ドアを開けておくから遊びにおいで』と声をかけた方がいました。リアルな人間としてそこにいると思ったのでしょう。絵とそこまで近くなれるなんて羨ましいことです。また別の鑑賞時にはヘンリー・ムーアのブロンズ彫刻《母と子》を見て、『これは地球だね』と本質をつく言葉が出たことも。絵の色遣いに対して『ここに緑色が必要だったんだ』と、まるで自分が描いたかのように語る人もいます」。

絵をきっかけに自身の経験を思い出す人もいる。「ジャン=バティスト=カミーユ=コローの《ナポリの浜の思い出》を見たときのことです。木と木の間に海が見えることから、山形に疎開したことを思い出した方がいました。『疎開先のおじさんが、あっちが東京の方角だよと言って、東京にいるお父さん、お母さんの顔が浮かんで涙が出そうだったけど、ここで泣いたら手を握ってる弟も泣いちゃうと思って我慢したんだ』という切ない話をお聞きしました。それを聞いた別の方が『私は終戦時に台湾にいて、海のそばに住んでたんだ』と話し出し、『終戦ですぐ引き上げなきゃならなくなり、友達にさよならも言えなかった』と続けました。そしたらまた別の人が『私は生まれ故郷の瀬戸内海を思い出した』と話が尽きませんでした」。
こうしたやりとりは、思い出を振り返り、他者と聞き合うことで喜びや充足感を感じる回想法という心理療法にも通じる。

「この絵はコローが晩年、若い頃に訪ねたナポリを思い出して描いた絵なんです。風景の奥にある普遍的なものを描いているから、その場に行ったことのない鑑賞者にも通じるんでしょう。アートには本質的なものがあって、認知症の人は記憶に蓋がされちゃっているんだけど、絵画がそれを開けるんじゃないかと思います。そこからどんどん記憶が出てくる。思いもよらないリアクションが返ってくるから嬉しいですよね」。

アートリップの終わりに参加者から「今日はありがとう。楽しかった」と言われるが、「アートコンダクターは教える人じゃなくて、アートの面白さを一緒に楽しむ人なんです」と林さん。高齢者にも自身を表現する “個”の表出は大切であり、新しい体験に意欲はある。認知症の人はすべてを忘れてしまうのではなく、エピソード記憶といって、強烈な印象を与えたことがいいことも悪いことも新しい記憶になっていく。

「もし思い出につながらなくても、目の前の絵を見て今感じることやいろいろ想像することはできますし、内容は忘れても、楽しかったという思いは1週間経っても1年経っても覚えているんです。その体験は量より質であって、ほんの小さなことでも質の高い経験ができれば人生は変わるんですよ。たくさんの言葉を話さなくても、何回かアートリップを体験するうちに自ずと語彙が増えて、形容詞が出るように。そうすると感情を言葉で伝えることができるようになります。
こうした反応や変化は、認知症だからというよりも、人間とはそういうものではないかと思うんですね。同じ絵を20分も見ているとイマジネーションが湧いてくる。よく見る癖がつくと日常生活もよく見るようになる。リハビリでもただ歩くだけでは楽しくないけれど、観察力がついてから散歩が楽しくなったという方もいます。雲が毎日違うことに気づいて、それだけで楽しくなったと」。

そんなふうにアートリップを自分のものにしたなら、毎日をどう生きるか、少しでも楽しむ方法を見つけられるのではないだろうか。
薬は世界の見え方を変えないけれど、アートは世界の見え方を変える。あるいは認知症当事者には世界がどう見えているかを想像する手立てにもなるだろう。

インフォメーション

7月14日開催予定 アートリップ@ 松岡美術館 (東京都港区)  参加者募集中!

会場:松岡美術館 展示室 5・6
   東京都 港区 白金台 5-12-6
日時:7月14日(月)10時30分~11時30分(10時~10時20分集合、11時40分解散予定)
参加費用:お一人 2,500円 (税込) ※別途入館料はかかりません
申し込み・詳細はこちらのリンクから

記事が続きます

次回連載第9回目は7月11日公開予定です

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白坂由里

しらさか・ゆり●アートライター。『WEEKLYぴあ』編集部を経て、1997年に独立。美術を体験する鑑賞者の変化に関心があり、主に美術館の教育普及、地域やケアにまつわるアートプロジェクトなどを取材。現在、仕事とアートには全く関心のない母親の介護とのはざまで奮闘する日々を送る。介護を通して得た経験や、ケアをする側の視点、気持ちを交えながら本連載を執筆。

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