2025.6.27
認知症当事者には薬だけでなくアートも必要!?――対話型鑑賞プログラム「アートリップ」【後編】
これらには、視覚・聴覚障害のある人とない人がともに楽しむ鑑賞会や、認知症のある高齢者のための鑑賞プログラムなど、さまざまな形があります。
また、現在はアーティストがケアにまつわる社会課題にコミットするアートプロジェクトも増えつつあります。
アートとケアはどんな協働ができるか、アートは人々に何をもたらすのか。
あるいはケアの中で生まれるクリエイティビティについてーー。
高齢の母を自宅で介護する筆者が、多様なプロジェクトの取材や関係者インタビューを通してケアとアートの可能性を考察します。
今回は前・後編に分けて認知症当事者のための対話型鑑賞プログラム「アートリップ」の取り組みを紹介します。前半は実際にこのプログラムを取り入れている施設を取材し、現場の様子をレポートしました。
後半は、「アートリップ」を立ち上げた林容子さんのインタビューを中心に、アートが人の心や身体にもたらす作用について考察します。
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MoMAで認知症当事者のための芸術鑑賞プログラムと出会う
「アートリップ」の活動を広げている林容子さんが高齢者を対象としたアート活動を始めたのは90年代末のことだ。それまでは1988〜90年にコロンビア大学大学院でアートマネージメントを学び、東京はじめ世界各地でパブリックアートを設置するコーディネートを手がけていた。しかし多忙を極めるなか体調を崩し入院。そのとき病室に絵を飾ったことが自身への励みになり、また医者や看護師、他の入院患者との会話の源にもなった。
アートの力を感じた林さんは退院直後に、世界初のアートと医療の国際会議「CHARTS(Culture Health and Arts)」に参加し、その前後にイギリスの病院やリハビリセンターを視察。そこではアート作品の展示のみならず、アーティストと患者が一緒になって創作活動を行っていた。アートが医療施設で活用されている。帰国後、同じ視察団にいた人物が経営する介護施設で、林さんが教える美術大学の学生を連れて創作活動を始めた。ボランティアでの活動は8年続いたが、学生は卒業すると入れ替わるため、もっと継続的に活動したいと考えるようになる。

2010年末、日本とアメリカのソーシャルリサーチに参加した林さんは、「メットライフ財団」の助成のもとニューヨーク近代美術館(MoMA)で実施されていた認知症当事者のための芸術プログラム「Meet Me at MoMA」と出会った。世界各地から視察団が訪れていた。
林さんは、感性豊かな参加者の反応に驚くと同時に、「今日は認知症の人はいなかったのかなと一瞬思いました。当時の日本では認知症といえば何もわからなくなってしまう病いだと言われていて、患者は表情豊かに自分の意見は言えないと思っていたんですね」と振り返る。
感銘を受けた林さんは、安倍フェローシップ・プログラムという研究奨学制度により、アメリカのケース・ウェスタン・リザーブ大学(オハイオ州クリーブランド)の神経学部教授ピーター・ホワイトハウスのもとでアートと認知症の研究をし、MoMAで対話型鑑賞のトレーニングを積んだ。
「ホワイトハウス氏は、アルツハイマー病の権威で、薬剤開発も行ってきた研究者でした。しかし薬による症状の緩和は限定的でした。薬は脳の中にある一つの化学物質にしか刺激を与えることはできませんが、人とのつながり、アート・音楽・演劇などの芸術は脳および身体にポジティブな刺激を与える可能性がある。写真家でもある彼は、認知症当事者には医者よりもアーティストが必要だと、早々に考え方を変えたのです」。
林さんは帰国後すぐ、認知症の方2名に対し、絵のコピーを使って対話型鑑賞を行ってみた。すると「今日はとても楽しかった。これまで認知症と言われて薬を飲んできたけれど、何のために飲んでいるかわからない。楽しいことが何もなかったけれど、これからはこれを糧にして生きていくよ」と言われ、これまでにないやりがいを感じたという。
「それで、日本認知症ケア学会に対話型鑑賞の協力をお願いしました。ところが、その時は断られてしまいました。2011年当時の日本では認知症への理解が進んでおらず、美術館に患者を集め、作品を見せて対話するなんて何が起こるかわからない。芸術療法より新薬の開発だ、ということだったのでしょう」。
こうした風潮の中、それでも旧ブリヂストン美術館などをはじめとして、取り入れてみたいという施設があり、2012年にアートリップを開始した。
認知症の予防効果や進行緩和を示す治験データも
日本での普及には、その効果を証明することが必要だと感じ、2013年、独立行政法人 国立長寿医療研究センターの島田裕彦医師と共同研究を行った。認知症の危険因子であるうつ病の予防にアートがどのような影響を及ぼすか。軽度認知機能障害「MCI(Mild Cognitive Impairment)」とうつ症状のある在宅高齢者76名に協力してもらい、アート創作と対話型アート鑑賞プログラムに「参加するグループ」と「参加しないグループ」に分け、参加するグループには3か月の間に週2回、計24回プログラムを行った。その後の検査でうつ傾向の改善が見られ、「認知症の発症を遅らせる」または「認知症になっても進行にブレーキをかける」認知症予防の効果を示す結果が得られた。
また、2021年には仙台富沢病院で、重度認知症の入院患者にカラオケ、演劇、運動などいろいろなアクティビティを実施してもらい、同病院考案の情動指数を比較すると、アートリップがポジティブな効果を最ももたらすという結果が出た。
重度の患者はストーリーを理解することが難しいが、アートは視覚的に訴えかけるので作品の世界に入りやすく、映像のように変化せずに静止しているので集中して鑑賞しやすいのだという。
「その後2週間後の往診時にも、アートリップが楽しかったと覚えていてくれたそうです。参加した日はずっとにこやかで食欲もあって熟睡できる。もしスタッフがアートコンダクターになって、週一回ぐらい継続的に行ったらより持続的な効果も期待できるかもしれないですね」。実際、横浜市では高齢者施設の介護職員を募ってアートリップの研修を行なっている。
一方、近年では美術館の対応にも変化が訪れている。「2022年のICOM(国際博物館会議)プラハ大会で15年ぶりにミュージアムの定義が更新され、『インクルーシブ』『ダイバーシティ』『サスティナビリティ』『コミュニティ』など時代に寄り添った言葉が入ったんですよ。美術館はあらゆる人を排除せず、コミュニケーションする場所であり、地域と連携すると。そこから日本でもアクセシビリティに力を入れるようになり、アートリップを取り入れる美術館も増えていきました」。