2019.9.15
仏教の「宗派」とは、中華料理の満腹セットである!!
宗派とは中華料理屋のセット料理と同じである
『じゃあ、結局どの宗派が正しいの?』
よくこういう話になりがちだ。でも、そうではない。基本的にはそうではないのだ。
ここで、やっと登場するのが、中華料理のたとえ。
中華料理屋で頼むとき、メニューがありすぎてめちゃくちゃ悩むじゃないですか。唐揚げにするか、酢豚にするか。チャーハンにするか、天津飯にするか。うわ、よく見たらこの店、四川風と広東風の2種類から選べるし。ってか、自分がどれくらい食えるかも分からんし。選択肢多すぎマジ無理麻婆豆腐。
そこで、登場するのが「餃子3個と唐揚げ2個、天津飯(並)の満腹セット(¥1,080)」である。これとこれとこれを食べれば、ちょうどよくお腹いっぱいになるし、中華を存分に楽しめる。そんなパッケージが、我々のニーズに突き刺さるのだ。
同じことがお経でも言える。矛盾をはらんだまま大量に存在するお経。どれもめちゃくちゃいいこと言ってるっぽいんだけど、よくわかんないんだよ。ブッダ、マジ残された者のことも考えろよな〜〜。
そんなニーズを満たすために存在するのが、「無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経の浄土三点盛りセット」のような「お経のセット」だ。煩悩まみれの僕たちにとって、コスパよい形でパッケージされているのである。
すなわち、基本的にどの宗派もベースとなるお経がある。そのお経の組み合わせでパッケージが構成されていると思ってくれていい(例外はあり)。それぞれの宗派には宗祖と呼ばれる人がいて、
『このお経が一番優れてると思う!』
『このお経の組み合わせ、マジ全員救われるっしょ!』
『この時代には、やっぱりこの教えなんだよなぁ(すまし顔)』
といった感じに、釈迦の説いたお経(教え)をセレクトしたものが宗派なのだ。
別の視点から物を言えば、仏教を学びたいと思う人は、別に宗派を経由する必要はない。中華料理屋で単品でも注文できるように、自分で自分の力量を測りながら、一つひとつのお経を読み解いていけばいいのだ。だがしかし、仏教の2500年の歴史において、それがめちゃくちゃ困難だと証明されているからこそ、現在でも「宗派」という形が残っていると説明すれば説得力があるかもしれない。
さらに言えば、どのセットもコスパよく最大限に中華を楽しむために設計されたものであるのと同じで、どの宗派が正しい、どの宗派が間違っている、といった言い分は根本的には成り立たない。基本的に仏教である限り、どの宗派も目指すものは「成仏」。つまり、悟りを開いてブッダになることである。宗派の違いを、登り方が違うだけで皆、同じ山を登っていると説明されることが多いのは、そういうことである。
なので、『自分が共感する宗派を選べばいいじゃん!』と僕は思う。そりゃ、人によっちゃデザートで杏仁豆腐を食べたい人もいれば、胡麻団子を食べたい人もいるだろう。それと一緒だ。