2019.6.23
あいみょん人気の裏にブッダあり? あいみょんから学ぶ仏教の極意「中道」
どんなあいみょんがこちらを覗いてるかな
あいみょんが中道であるのは、音楽ジャンルだけではない。
男性・女性といった画一的なジェンダーの境界線すら葬っていく。
ライブでは絶対にスカートをはかないですね。シンガーソングライターの女の子ってどうしてもアイドル的な目で見られがちなんです。でもメジャーデビューのタイミングでビジュアル面をとんだ林蘭さんにお願いすることが多くなったんですが、それから良い意味でそういう目で見られることが少なくなって女の子のお客さんが多くなりました。
出典:共感を呼ぶ過激な歌詞 兵庫発“特異”シンガー・ソングライター、あいみょん(WWD JAPAN.com)
この発言からわかるように、あいみょんは女性性を強く押し出した「女性アーティスト」としての側面を否定しようとしている。
これは、歌詞に男目線と女目線の両方が混在していることからも理解できるだろう。
『君はロックを聴かない』では、少しでも「僕」に近づいてほしいと歌い、『ふたりの世界』では、いつになったら「私」のことを嫌いになってくれるかなと歌う。
また、「私」として描かれる女性性も、男を打ち負かそうとする女性像でもないし、ましてや、男に媚びる女性像でもない。ありのままの女性性なのである。
“真夜中に会いたくなり 彼のもとへ
私が突然抱きつき 彼は泣いている”
『好きって言ってよ』作詞作曲:あいみょん
歌うのは、女性として生まれ持っている、揺れ動く心の弱さであり、芯の強さでもある。
そこには「このような女性像を描きたい」といった意図や作為もなく、極めて自然体な一人の人間の輪郭だけが描かれていく。
私たちはジェンダーを意識したとき、どうしても対立する性との距離を埋める形で自分自身を表現しがちだ。
「男に負けないように」「女にでかい顔をさせないように」
そんな言葉で飾られる対立構造からあいみょんは一歩離れているように見える。
あいみょんは「女性」として消費されることに違和感を抱いた上で、着飾らないありのままの女性性、つまりは「人間性」で表現しようとしているのである。
そんなあいみょんの「自然体」、そしてそこから発される「脱力感」こそが、嘘と方便の物語で塗り固められた音楽市場の中でキラリと光るファクターになっているのではないだろうか。
対立構造から解き放たれて、自己を何者にも寄せようとしないあり方を仏教では「中道」と呼ぶのである。
ジェンダーレスで、自己を自身の芯で突き通そうとしているあいみょんは中道を歩んでいる。もはや体の芯から南無っているようにしか思えないのだ。
君はお経を聴かない
体育会系だとか、文化系だとか。清純系だとか、メンヘラだとか。
僕たちはよく、既存の枠組みに自分や他人を位置付けようとしてしまう。
さらには、
「逆に今、アナログレコードを聴いているよ」
「俺はあえて、spotifyで聴いているわ」
こんな風に「価値観への対立」を基準に物事を考えたとき、人はどうしてもそういう言葉を使いがちだ。自分を既存の価値観に依存させ、自分らしさを外付けで補おうとする。
そんな画一的な枠組みや、価値の対立から解き放たれる生き方が「中道」だ。
あいみょんの生き方は僧侶の目線から見れば、まさしく中道的だ。
あいみょんの曲にはよく「南無阿弥陀仏」やら「ナンマイダ」の仏教的なフレーズが出てくる。
もしかして、それは必然なのではないだろうか。そんな妄想が止まらない(煩悩)。
もし今後あいみょんを聴くことがあったら、そんなことを言っていた僧侶のことを思い出してほしいと思う。
ただ、最後に少しだけ、本心を綴っておくと、、、
君はお経なんて聴かないと思いながら
少しでも仏に近づいてほしくて
お経なんて聴かないと思うけれども
僕はこんな経であんな御法語で
恋を乗り越えてきた
なんだけど。たまにはお経も聴いてね!!!!!