2019.6.23
あいみょん人気の裏にブッダあり? あいみょんから学ぶ仏教の極意「中道」
“琵琶の弦 きりりと締めりゃ
ブツリと切れ さりとて
ゆるめりゃ ベロンベロン”
2500年前、飲まず食わずの長い苦行をしていた釈迦は、とある農夫が口にしたこの歌を聴いて、ふと気づくのである。
「極端、よくない」と。
修行の果てに、釈迦は「頑張りすぎず、楽をしすぎず、ほどほどが大事だ」と気づいた。それが仏教の「中道」という教えの始まり。マジ正論である。
しかし、時は超えて、2019年。
街で鳴ってる音楽に耳を澄ましてみれば、めちゃくちゃな「極端」が歌われているではないか!
“愛を伝えたいだとか 臭いことばっか考えて待ってても
だんだんソファに沈んでいくだけ”
『愛を伝えたいだとか』作詞作曲:あいみょん
“ねえ? どうしてそばに来てくれないの
死ね。 私を好きじゃないのならば”
『貴方解剖純愛歌 〜死ね〜』作詞作曲:あいみょん
「極端、よくない」
あの日の釈迦はこんな気持ちだったのだろうか。
あいみょんを聴いて、僕もそう思った。
グズグズの恋もよくないし、相手に致命傷を与えてしまうほどの恋もよくない。「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」と言えるくらいの恋が丁度いいのだ。
そんな両極端を歌っているように見えるあいみょんではあるが、いざその生き方を詳しく見てみれば、驚いた。誰よりも仏教の「中道」を歩んでいるではないか。
「中道」。すなわち、「まぁまぁ・適当に・いい加減に」と捉える人もいるが、もう少し詳しく説明すれば、
「対立する二つの極端な立場のどれからも離れ、対立を超えた自由な立場」である。
あいみょんは、武道館公演や2018年平成最後の紅白歌合戦出場を達成し、音楽ストリーミングサービスでは常に上位にランクインしている、今一番聴かれているアーティストと言っても過言ではない24歳。
そんなあいみょんが人気を博しているのは、実は「中道」を歩んでいるからなのでは?
というのがあいみょん大好き僧侶の一意見だ。
中道とは一体どういう生き方なのか。なぜ人は中道を歩むべきなのか。
その答えを、2019年「中道」の最先端を走っているあいみょんに(脳内で)尋ねてみよう。
君は「あいみょん」を知らない
「あいみょんとは一体何者なのか?」。
まるで「アンビリーバボー」冒頭のビートたけしみたいではあるが、この問いの明確な答えを、未だ人類は導き出せずにいる。
実はこれまでに他の企画の原稿で何度もあいみょんについて書こうとしてきた。
しかし、二度も三度も、頓挫してしまうのだ。
その原因は「切り口がない」ということ。
文学的でありながら等身大である歌詞。
キャッチーだけど、どこか一つフックを隠し持ったメロディーライン……。
う、うん。いや、足りない。全然言い足りていない。
どれだけ言葉を尽くしても、グッと核心に迫るものがないのである。
その末に、気づいてしまったのが、「あいみょんは『あいみょん』としてしか語れない」という事実だ。
それは、あいみょんが既存の枠組みから離れ、何者にもとらわれていないという唯一の証拠。つまりは「中道」だと言えるのではないだろうか。