2020.5.15
佐藤賢一特別寄稿 老人の価値観で動く国—コロナ禍で見えた日本
巨大勢力は高齢者
三月二日から全国の公立小中学校を全て休校させる、と発表された。その日を迎えてみると、私立も、さらに高校も、ほとんどが休校になった。私はといえば、あれっ、どうして、と唖然とした。中高年以上じゃないのか。持病がある人じゃないのか。行動が制限されるとすれば、高齢者から順にじゃないのか。重症化リスクの低い子供たちが、どうしてまっさきに負担を強いられるのだ。おかしい。間違いじゃないのか。釈然としない気持ちでいるうちに、息子から聞かされたのが、老人に叱られたその友人の話だったのだ。
俺たちの命が何よりも大切だろう。そのために若い者が犠牲を払うのは当然だろう。高齢者は、まず自分が注意しろだと? 冗談じゃない。俺たちは生活を変えたくない。ゲートボールはしたいし、そこで仲間と集まるのが楽しいのだ。その何が悪い。俺たち老人の幸せを守るのが、国民の務めだろうが。中学生を叱りつけた老人にせよ、そうまで傲慢な了見でいたとは思わない。ましてや全ての高齢者が同じ態度に出るだろうとは思わない。
行為の主体はむしろ国や自治体で、最優先に高齢者の事情を忖度し、そのうえで取るべき措置を選択していくというのが、業務の大前提になっているのかもしれない。高齢者こそ今や人口の四分の一超、有権者の三分の一超を占める巨大勢力であれば、選挙を気にする議員たちがおもねるのも当然だ。それにしても、まさか、ここまで──と絶句の事態は、まだまだ続いた。
小中高生の次は、大学生や、それを含めた若者世代だった。活発に活動する、行動の範囲が広い、それでウイルスを撒き散らすかもしれないと、何か悪さでもしているように槍玉に挙げられた。いざ陽性になり、周囲に感染させた日には、自覚がなさすぎると非難の声は高くなるばかりだった。が、そのとき若者たちより上の世代は、どんな自覚があって、何の自粛を試みていたというのか。
ちょうど春休みの時期だったが、大都市圏に暮らす若者は帰省を控えろとも呼びかけられた。地方にウイルスを持っていくな、ことに地方は高齢者が多いのだからと説かれたのだ。が、このとき地方の高齢者たちはといえば、早朝から大勢でドラッグストアに列なして、マスクの買い占めに励んでいた。自分はマスクをしているわけでなく、なんのためかと聞けば、都会にいる子や孫に送って、ありがたがられたいのだとか。
若者の次が妊婦で、今度は里帰り出産は控えろとの要求だった。親にも頼れず、初産でなければ上の子の育児もしなければならないにもかかわらず、コロナ禍で緊迫する大都市に留まれというのだ。もう夫しか当てにできないが、その夫も大抵は仕事がある。だからというわけではなかったが、このころから在宅ワークが強く推奨され始めた。
現役世代、いうところの大人たちも行動を制限されるようになったが、就労していない高齢者は、この期に及んで何も求められなかった。四月頭に緊急事態宣言が出され、全ての日本国民に網がかけられて、ようやく外出の自粛と三密の回避を求められたのみである。新型コロナウイルスに感染すれば最も重症化する高齢者が、最後の最後だったことになる。
このころには経済活動も厳しくなった。経営にも、家計にも支障が出るケースが増えて、国の支援が強く求められるようになった。二転三転した末に、煩瑣な手続きは避けるべきだということで、全ての国民に一律に十万円が支払われることになった。が、完全な年金生活者は、このコロナ禍でどんな収入減があったというのか。ただ十万円のお小遣いをもらえるなら、いよいよコロナ万歳の体ではないか。
こんな風にみてしまう私のほうが、あるいは少し変なのだろうか。こんな論じ方は他からは聞こえてこないからには、もしや特別に意地が悪いのか。いや、中高年以上、それこそ高齢者といわれる人々のなかにも、私と同じに首を傾げた向きはいたはずである。しかし同時に、中高年以下、大人も、若者も、子供も含めて、何の疑問も覚えなかったという人々も、意外なほど多いのだろう。
もしかすると、それが社会の多数派なのかもしれない。気にならないのは、日本人は実年齢に関係なく、もう多くが老人の感覚で生きているからかもしれない。日本は老人のためにある国というより、老人の価値観で動いている国なのかもしれない。