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佐藤賢一特別寄稿 老人の価値観で動く国—コロナ禍で見えた日本

二度と訪れない大切な「今日」

「カルぺ・ディエム」
 古代ローマの詩人ホラティウスの言葉である。『歌章カルミナ』の第一巻第十一歌にあり、そのラテン語は「今日をつかめ」くらいに訳せる。明日など信用ならないのだから、今日をつかめ──今日の花を摘め、今日を楽しめ、今日を無駄にするな、今日を懸命に生きろ、といった意味である。
 この「今日をつかめ」という発想に乏しいのが、老人である。あるいは歳を取るにつれ、乏しくなるというべきか。
 かなしいかな、私も五二まで歳を重ねてしまったから、実感としてわかる。今日という日は、そんなには大切でない。去年の今日と、さほど変わらないからだ。来年の今日だって、それほど違わないと思うのだ。もっといえば、今日は昨日と比べても、そんなには変わらない。明日だって大きく変わりやしない。同じような毎日が、ただ繰り返されていくだけだ。むしろ大切なのは、その繰り返し──それこそゲートボールに興じるような日々の、平和な繰り返しそのものなのだというのが、今の日本に支配的な感覚であり、ほとんど皆が身を任せている価値観なのではないか。
 だから、今日は大切でない。一日や二日、無駄にしても頓着しない。一月や二月でも、そのあとに元の日常が回復されるなら捨てていい。一年、二年となっても、また似たような歳月が一年、二年と続くに違いないと信じているから、平気で犠牲にすることができる。また自分が平気なものだから、他人も同じように平気なのだと決めつける。
 だから、子供たちを一番に犠牲にできる。三月頭から休校で、そのまま春休み──そういう年があっても仕方ないよと簡単に片づけるが、子供たちにとって失われたのは、もう二度とは訪れない大切な今日の連続である。小学六年、中学三年、高校三年、大学四年の一定数は卒業式にも出られず、本当なら死ぬまで覚えているだろう思い出を奪われた。若ければ若いほど、たった一日くらいで済ませることができないのは、それが持つ密度が後の日々とは比べられないくらいに高いからなのだ。自分が若いころ、子供のころのことを思い出せば、その長さ、その重さ、その大きさが、たちまち腑に落ちるはずなのだが、老いた日本は忘れ放しで、それさえしなくなっているのだ。
 休校の措置は長引いた。小中高大の多くで入学式は延期、または中止になった。胸ときめく新学期も始まらない。このままでは運動会、修学旅行、林間学校、文化祭と、思い出に残るだろう行事は、ほぼ全てが流れる見通しだ。
 夏の全中、インターハイも、さっさと中止が決定された。文化部の活動にせよ、音楽系から次々コンクールがなくなっている。それに掛けた若者たちの血のにじむような努力は、あっさり黙殺されたれたのだ。今は何より命を優先して、だと? 青春の輝きなくして、何の命か。逆に若いころの記憶さえあれば、あとは惨めでも苦しくても、なんとか生きていけるというのが、人間ではないか。一生の財産を奪っておきながら、残念、無念、気の毒だ、で済ませられるのか。
 行事や大会だけではない。なにより日々の勉強が遅れている。かれこれ二カ月になる休校は、さらに長引く可能性もある。学習の機会が、これだけ失われているというのに、そういう年もあるさで片づけられるのか。中学、高校、大学の受験生にとっては、もう大袈裟おおげさでなく一生を左右される危機になっている。就職活動も同じで、このままでは再びの氷河期となり、また社会問題化するだろう。教育実習ができないので、大学生は教員免許も取れない。教員を含め、公務員の採用試験など、この夏にできるのか。
 学校の問題については、すでに声が上がっているように、私も九月入学に変更するしかないと考える。無頓着に奪ってしまった沢山の今日という日を、子供たちに残さず返してあげるためには、他のどんな方法でも不十分だからだ。が、反対意見も強い。役所や現場の教員の間では、ありえないとの声さえ圧倒的なようだ。
 なるほど、それらは老人の感覚が、なかんずく強い職場なのかもしれない。常に前年度実績があり、それを今年度も同じように繰り返し、来年度に申し送る。大切なのは今日でなく、繰り返しのほうなのだ。それさえ守られれば、心苦しくはならない。今年は卒業式ができなくても、去年はできたし、来年もできるだろうからと、それで先生たちはあまり気にならないのだ。
 しかし、これでよいのか。子供の問題だけでなく、差はあれ全ての分野、全ての世代、全ての地方に及んでいるこの老人の感覚で、日本人は生きてよいのか。老いた価値観で生きる者ほど生きやすい社会であって、本当によいのか。
 繰り返しが大切という、その根本価値は過去である。過去を肯定するから、その繰り返しを善とする。現在も、未来も、それで保障されると思いこんでいるが、実は何の根拠もない。それで通用した時代が、日本にはあったかもしれないが、少なくとも今は違う。もう明日は何も約束されない。できるのは今日をつかむことだけなのだ。
 それなのに、いまだ今日をおろそかにして、昨日を再生することだけに固執する。基本のラインは前年踏襲、そこから少し変えれば、もう十分だと考える。予算だって、大きくは組み替えない。今日の家賃を払えなければ、明日の営業などできなくなると訴えても、今は休め、そのうち働けるようになるからと、先を軽々しく請け合うだけで、ずっしりと中身がある今の保障は聞こえてこない。その間も繰り返しに安住する者だけは報われ続けるが、そんな社会で本当にいいのか。
 カルペ・ディエム──今日をつかめ。そうして明日を切りひらく。
 この発想が乏しい国には、要するに未来がない。老人の末期さながらに、徐々に先細りして、ほどなく命を絶やすだけだ。
 いや、コロナ禍なら、いつか終息するだろう。しかし、この過去にしがみつき、その繰り返しに執着し、そうすることに疑問さえ抱かない老人の感覚こそ、日本が抱える真の病根なのではないか。治すことなく、ひたすら不変不朽の夢に遊ぶなら、それは安楽死を選択するに等しいのではないか。
 カルペ・ディエム──今日をつかめ。それは今しかできない。

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佐藤賢一

1968年山形県鶴岡市生まれ。山形大学教育学部卒業。東北大学大学院文学研究科フランス文学専攻博士課程単位取得満期退学。
1993年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞受賞。96年『王妃の離婚』で第121回直木賞受賞。2014年『小説フランス革命』で第68回毎日出版文化賞特別賞受賞。主にヨーロッパ史を題材とした歴史小説を多く手掛けているが、近年は日本、アメリカを舞台とした作品も発表し舞台化されたりなど話題となる。日本語のみならず、フランス語などの外国語文献にもあたり蓄積した膨大な歴史的知識がベースの小説、ノンフィクションともに評価が高い。
著書に下記などがある。
<小説>
『傭兵ピエール』『双頭の鷲』『カルチェ・ラタン』『オクシタニア』『黒い悪魔』『褐色の文豪』『ハンニバル戦争』『ナポレオン』『女信長』『新徴組』ほか。
<ノンフィクション>
『英仏百年戦争』『カペー朝』『テンプル騎士団』『ドゥ・ゴール』『ブルボン朝』ほか。
<漫画原作>
『傭兵ピエール』『かの名はポンパドール』

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