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祝!続々重版!!【村井理子ロングインタビュー前編】「赤川次郎を知り、椎名誠に恋をし、ブッシュを追った」、その半生とカルチャーを振り返る

カナダ留学の強烈なホームシックとその反動

――高校時代にはカナダ留学もされたそうですね。海外はずっと行きたかったんですか?

私の希望というよりは、親に送り出されたんです。私が小学生の頃に兄がグレ始めて、母は私と兄を離したかった。それで隣町の中高一貫のミッションスクールに入れられました。
実際私も中学生になったら、兄ちゃんみたいなヤンキーになって、長いスカート穿いて、木刀を持って、バイク乗ろうって本気で思ってたんです。ヤンキーなっちゃおう! すっごい楽しみ! って感じだったので、母の判断は間違ってなかった(笑)。

――今から40年前だと、静岡から海外に送り出すのは親としても勇気が必要ですよね。

ほんとそうですよね。今、自分の息子たちが高校生になって「よく送り出したな」って余計に思います。私が今まで経験した中で最もつらかったのがホームシックでした。何も手につかないし、眠れない。2ヵ月ぐらい続いて、本当に死ぬほどしんどかったです。

――どれくらいカナダにはいましたか?

一時帰国もありましたが、合計2年くらいですかね。最初の2ヵ月が過ぎたら、もう楽しくてしょうがなかった(笑)。当時、トロントで一番大きかった日系人教会の牧師夫妻が里親になってくれて、平日は勉強して、週末はボランティア。おかげで英語はすぐに慣れました。

――どんな学校でしたか。

英国国教会系の学校でした。校歌はラテン語でまったくわからないから、とにかくマネて、歌ってましたね。学生寮には海外から来た子たちがたくさんいて楽しかったです。あの頃の友達とは今でも繋がってますね。みんな世界中で活躍してておもしろいですよ。それでカナダの生活に慣れたら、今度は海外に行きまくる人になっちゃったんです。今考えると恐ろしいんですけど、20歳にもならない頃に、一人でカナダからジャマイカやバハマ、トリニダード・トバゴ諸島とか行ってました。中米に仲のいい友達がいたからだったんですけど、よく行ったなぁ。ちょっと時間を見つけると、すぐ海外に行ってましたね。

――海外移住は考えませんでしたか?

25〜6歳ぐらいまでは考えました。海外の自由の心地よさは魅力的ですからね。ミッションスクールの同級生たちはほとんど日本にいないですよ。残ってるのは本当に私ぐらい。ただね、年を取れば取るほど、やっぱり第二言語で暮らすのは、心もとないなと思いますね。母語以外で生活するのは、意識してなくとも、常に緊張状態にある気がするんです。私はもう死ぬまで日本で暮らしたいです。

暗黒の大学時代から退屈な派遣社員へ

――大学生活はいかがでしたか?

大学も最初は楽しかったんですが、1年生の後半から休むことが増えて休学しました。京都の狭い女子専用アパートに住んでて、隣の部屋の女の子が毎晩夜通し松田聖子の「抱いて…」を熱唱するんです。それがとってもイヤで逃げだしちゃった。夜逃げというか、部屋にも戻らず、そのまま引っ越しましたから。

――その頃ちょうど実家からの仕送りも途絶えたと、『家族』というエッセイで書かれていましたね。

そうですね。西京極に引っ越したんですが、お金がなくてアルバイトばかり。英語が喋れたので、家庭教師とか外国人向けのカラオケバー、ライブハウスでもバイトしてました。働いた後は友達と朝5時まで酒ばっかり飲んで、学校なんか行かないですよ。結局卒業まで5年かかりましたが、授業の記憶がないんです。ほんとお金がなくて大変だった。ガスとか電気もすぐ止まっちゃって苦労しました。友達が遊びに来た日に電気が切れたときはね、ちょっと半泣きでしたよ。

――学費も生活費も学生一人で払うのは大変ですよね。

まあでも父が亡くなったばかりで、それまで母もよく一人で仕送りがんばってたなと思います。当時は突然仕送りが途絶えて、しかも彼氏に貢いでたっていうのを知ってかなり怒りましたけど。まあしょうがないですよ。

――就活はどうしていましたか。

当時はバブル崩壊直後で、競争が激しくてメンタルが耐えられなかった。みんなギラギラしてて、バリバリ圧迫面接みたいな時代だし、やりたいこともわからなくて、手当たり次第に履歴書を送っていました。でも全然心がついていかなくて、大阪駅で泣きながら「私、もう絶対就職活動せんわ」と友達に宣言して、すっぱり就活をやめちゃいましたね。

――就職しないでどうするつもりだったんですか?

静岡に帰って、母のお店を継ごうと思ってました。でも、当時一番仲がよかったヨウコちゃんが「あんた、田舎に帰って何すんの?」と言ってくれて。「私はもうニューヨークへ行くで。あんたも何とかしいや」って叱ってくれたんですよね。

――発破かけてくれるのは、いい友人ですね。

そうなんですよ。で、そのヨウコちゃんに「就職無理やったら、派遣に行きや」ってアドバイスされるんです。当時はまだ派遣って知られてなかったから「何それ?」と聞いて教えてもらって。「とりあえず派遣で時間を稼いで、また考えたらいいやん」って的確すぎるアドバイスで救われましたね。

――どんな仕事をしましたか。

大手電機会社で家電の説明書を英訳する仕事ですね。私がラッキーだったのは、高校生のときカナダでこんな分厚いマッキントッシュを使ってたので、DTP系のソフトも使えたこと。

――そこでけっこう長く働いた?

私に根気がなくて全然ダメでした(苦笑)。退屈だったんですよ。そこで、退屈しのぎに文章を書き始めるんです。そこの職場が先進的で、パソコンが一人一台あってネットにつながってて、「まぐまぐ」というメルマガをやったり、「さるさる日記」で、上司やお局さんの悪口を書いてたんですよ。「京都のOLの愚痴日記」みたいな感じ。

――村井さんの執筆の原点には、日記があったんですね。

そんないいものでもなくて、「今日はこれで終わり、帰りにビールを飲んで帰ろー。それじゃあねー!」って感じです。「京都&OL」のブランドで読者がついただけ(笑)。結局その会社は1年でクビになりましたね。

――自分で辞めたんじゃなくて……?

はい、ほんとにクビです。でもまたすぐ次の会社に雇われたんです。そこでもリリース文の英訳やプレゼンの翻訳を任されたんですが、やっぱり暇なんです……。

――仕事が早かったんでしょうね。時間を持て余してた。

どうなんでしょうね。職場の人間関係など、環境がそこまで良いとは言えずに、そこもしばらくして辞めました。今はこれでも女性が働きやすくなった印象はありますね。昭和・平成は本当にひどかった。私みたいなのはとても働けない時代でしたね。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
新刊エッセイ『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』(CCCメディアハウス)が、12月16日に発売!


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