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史上初の雲竜型と不知火型の土俵入りを披露。「北玉時代」と呼ばれた盟友・玉の海との粋すぎる友情物語【藤井康生『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』試し読み】

玉の海急逝

さて、夏巡業の最後に来て、玉の海はついに緊急入院となりました。当然、医師も手術を勧めます。ところが、九月場所後に兄弟子・大鵬の引退相撲が予定されていました。当時は虫垂炎の手術も、今のように短期間での快復は望めません。玉の海は、虫垂炎の手術に踏み切ると九月場所に間に合わず、大鵬の引退相撲にも出場できなくなることから、九月場所の強行出場を決断します。
その九月場所では、今度はまた北の富士が全勝優勝を果たします。玉の海は薬で虫垂炎の痛みを散らしながら12勝3敗で終えました。
そして場所後、大鵬の引退相撲に出場し、大鵬最後の土俵入りで太刀持ちを務めました。その直後、玉の海はようやく虫垂炎の手術を受けます。そして、順調な回復とみられていました。

ところが、翌日に退院を控えた10月11日のことでした。
突然、病状が悪化し、玉の海は27歳の若さで亡くなります。虫垂炎の術後、心臓動脈血栓症などを併発したことが原因とされました。
この時、北の富士は岐阜県羽島市での巡業中でした。車で宿舎に帰って来た時に、待ち受けた報道陣から玉の海の訃報を耳にします。

「驚いたねえ、玉の海が亡くなったって聞かされて。にわかには信じられなかった。『悪い冗談はやめてくれ』ってね。それでも、嘘じゃないってことがわかってね、まあ、そんな嘘をつく人間もいないだろうけど、事実だとわかって、ボロボロ涙が出てきてね。『若いのになあ、頑丈な体のはずなのになあ、つらかったろうな』って。後にも先にも、あんなに泣いたことはないですよ。俺ね、薄情な男なのか、人が亡くなっても泣くような人間ではないんだよね。だけど、あの時ばかりはね、なんだろうなあ。やっぱり、玉の海が好きだったのかな。人間的にね」

玉の海が急逝した直後の、昭和46 (1971)年十一月場所、北の富士は13日目に優勝を決めます。

「新番付を見た時に、玉の海の四股名がないんですよ。当然なんだけどね。それがまた、つらくてね。急に一人横綱ですよ。こんな時が来ることなど、考えたこともなかったよね。だから、もう場所前から『この九州は、絶対に優勝するしかない』と思っていた。誓ったと言ってもいいかな。それほどの決意を持ったのは、この場所が最初で最後だね。十一月場所は何が何でも優勝したかった。まさに、弔い合戦の思いだったよね」

北の富士は見事、優勝を果たします。そして優勝パレードも断り、玉の海の四十九日の法要に駆け付けたという話が伝わっています。

「それは記憶にない。思い出せないねえ。美談を誰かがつくったんじゃないの。そのほうが男の美しい友情物語だよね。まあ、昔話はどんどん大きくなることがあるからね。俺にとってはいいイメージの話は嬉しいよね」

真実はどうだったのか、今となってはわかりません。

親友、その真相

「北玉」と並び称された時代、ふたりの戦いはわずか8年間です。今思えば、あっという間だったかもしれません。しかし、北の富士さんにとっては、とても中身の濃い時代でした。それを証明するように、玉の海との若い頃からの思い出話は尽きません。

「幕下の兄弟子がね、玉乃嶋(のちの玉の海)に負けて部屋に帰って来たわけですよ。年下の玉乃嶋に負けたもんだから、かっこ悪いって気持ちもあったんだと思うよ。照れくさかったのかな。いきなり『あいつ(玉乃嶋)、強いなあ』ってなるわけだよね。で、そのうち、対戦する部屋の力士が、みんな、『玉乃嶋、あれは相当強いぞ』ってね。実際に対戦した力士の感想を聞いていると、そのうち玉乃島っていう存在を少し意識し始めるんですよ。当然、やってみたくなるわけだよね」

初めての対戦は稽古場でした。玉乃嶋が十両に上がった頃のことでした。

「彼が出羽海部屋まで稽古に来たことがあったんだよね。俺もまだ細くて、100キロなかったんじゃないかな。玉乃嶋もまだまだ小さかった。今思えば、互いに大した存在じゃないよね。実際に取ってみても、確かに、重心は低くて足腰はしぶといけど、まあ、それほどでもないだろうって。それから何年か経って、互いに横綱になったあと、新聞だったか雑誌だったか、座談会に呼ばれてね。その座談会で、初めて対戦した頃の話になったんだよ。俺が、『周りが言うほど大したことはないと思った』って言うとね、玉の海も負けずに『俺もそう思っていた。北の富士が有望って言われるけどそれほどでもないんじゃないの』って」

入幕してしばらくすると、明武谷、琴櫻、麒麟児(のちの大関・大麒麟)、開隆山など、多くのライバルが横並びで「大関先陣争い」と騒がれるようになります。そこから抜け出したのが、北の富士と玉の海のふたりでした。

「大関に上がった頃には、玉乃島もすぐに追いかけてきたからね。やっぱり『こいつ(玉乃島)にだけは負けたくない』と思い始めていましたね。うん、それは間違いない。その頃には、俺自身も玉乃島の強さを認めていたからね」

玉の海が亡くなった後、しばらくして北の富士さんは蒲郡の玉の海の実家を訪ねました。

「玉の海は、あまりプライベートなことは話さなかったけどね。確か、4人兄弟だったかな。お母さんが女手ひとつで育ててくれたんだよね。きっと苦労しているんですよ。俺も、普段はそこまで訊くこともないしね。触れることもなかった。玉の海が亡くなって、あいつの石像ができた時だったかなあ。蒲郡の実家に挨拶に行ったんだよ。お線香をあげにね。そうしたら、壁に色紙が飾ってあるのを見つけてね。自分の手形を押した色紙ですよ。そこに『お母さんの家を建てる』って書いてあるんだよね。

俺が訪ねた実家、それこそ彼が建てた家なんだよ。立派な建物だったよ。母親に訊くと、関脇ぐらいの時に建てているんだよね。大したもんだよ。親孝行だよね。感動したよ。その色紙をもう一度見たときにね、ため息が出たねえ。『ああ、島ちゃん(玉の海)は俺とはずいぶん違うなあ』と思ってね。俺は全部、飲み代に消えたもんな。情けなくなったね」

「親友」と伝えられているふたりですが、実際はどうだったのでしょうか。

「所属する部屋が別だとね、そんなに一緒にいることはないですよ。土俵を離れたらほとんど会うこともない。横綱会の宴会とかね、あとは新聞や雑誌の企画での対談とか、そのぐらいだったかなあ。巡業なんかで地方に行くと、同じ食事の店でかち合うことも、ときどきあったけど、向こうも後援者の人といたりするから、挨拶程度でね。それと、彼は酒を飲まないからね。
見た目は難しい顔をしているし、無口に見えるんだけど、とても明るい男だったよ。爽やかって言うのかな。むしろ、俺のほうがウジウジしてる。あいつは、カラッとしているしねえ、朗らかで。話も面白かったよ。やっぱり酒が飲めないことだけが残念だったよね。

プライベートでは、一緒に飲みに行ったことが一度もないんだよ。彼も飲めればね、もっと頻繁に酌み交わしていたと思うよ。だから俺自身は『親友』とまでは言えないと思うよね。まわりは『ライバルで、親友で、プライベートでも仲が良くて……』、そういう設定にしたほうが盛り上がったんじゃないの? 当時の両横綱だからね。今のように、携帯電話があるわけでもないから、ほとんど連絡を取ることもなかったですよ。そういう意味では、今は一門が違っても、気が合えば簡単に連絡を取り合ってね、飯でも何でも行けるから、まあ便利な世の中ですよ」

普段は会うことがなくても、同じ場所でバッタリ出くわすということはあったようです。そこでは、相撲以外での対決も実現しました。

「名古屋場所の千秋楽の後だったかな。とにかく暑くてねえ。付け人には小遣いを渡して、『飯でも食って来い』ってね。俺ひとりでホテルのプールに行った。そしたらねえ、なんと玉の海が来てるんだよ。驚いてねえ。こんなこともあるんだねえ。あいつもひとりなんだよ。『何しに来てんだ?』って言ったら、『泳ぎに来たんだよ』って。当たり前の答えだよね。『だったら対決しようじゃないか』ってなったわけ。そうしたら玉の海、何て言ったと思う? 『俺はこう見えても、蒲郡のトビウオって呼ばれてたんだ』とか何とか言ってくるから、『俺は北海のカジキマグロだ』って返して……」

25メートルの勝負は、蒲郡のトビウオに軍配が上がりました。

「タッチの差だった。物言いが付いてもいいぐらい。悔しかったねえ。そういえば、ボウリングでも勝てなかった。玉の海、アベレージは200以上だったと思うよ。何をやらせても見事にこなす器用な男でしたよ。それ以降、相撲以外での勝負は諦めた」

器用な男、その言葉を証明するエピソードがあります。

「横綱に昇進して間がない時に参加した横綱会だったね。栃錦(春日野親方)や若乃花(二子山親方)、大鵬(大鵬親方)、柏戸(鏡山親方)、もう並み居る先輩横綱たちの前ですよ。大鵬さんが突然、玉の海と俺を指名するんだよ。『おまえたち、何かやってみろ』って。
玉の海と顔を見合わせてね、心の中で『困ったなあ』って。そうしたら、玉の海が、『じゃあ、俺がギターを弾くよ。「ネオン無情」も弾けるから、北さん歌おうよ』って」

北の富士さんは、大関時代にレコードデビューしていました。昭和42(1967)年のことです。『ネオン無情』という曲は、50万枚を売り上げるヒットとなりました。

「仲居さんを呼んで、『ギターを貸してほしい』って頼んでね。いざ、本番ですよ。玉の海のギターは栃若も柏鵬も絶賛だった。高砂親方(当時・振分親方、46代横綱・朝潮)から妙に褒められたのを憶えてる。普段は怖い人なんだけどね。『おまえら、やるなあ。いつもふたりでやってんのか? リハーサルしてきたのか?』って言われてね。そんなの、音合わせもリハーサルもないですよ。
でも玉の海は、巡業にもギターを持って行ってたからね。休憩時間さえあれば、弾いていたよ。リクエストしたら、喜んでいろんな曲を弾いてくれたよね。左利きだった。だからギターも特注だって言っていた」

北の富士さんの言葉からすれば、ふたりは対照的な面のほうがはるかに多かったようです。四つ身の型も、醸し出す雰囲気も、そして土俵を離れた時の趣味も生き様も……。ほとんどが対極にあったからこそ、互いに気が合い尊重し合ったのかもしれません。
北玉時代を、北の富士さん自身はどう振り返るのか訊いてみました。

「短い時間だったよね。『北玉』と言われるほどの時代でもないよ。たとえば、玉の海があと数年でも生きていてくれたらね、俺も北玉時代と言われても恥ずかしくないような成績なり、歴史を残せたかもしれないけどね。
俺は『北玉時代』って言われると、恥ずかしくなるんだよ。どうせ短いなら、『玉の海時代』にしてくれればよかったんじゃないかってね。だって、玉の海の言われ方は『双葉山の再来』ですよ。俺なんか『イレブン横綱』だもんね」

北の富士さん一流の謙遜です。『親友』とまでは呼べないにしても、生涯、北の富士さんの心の中には、玉の海の存在があり続けました。

「玉の海は不幸にして、早く逝っちゃったからね。そういうところからも、俺の感情は来てるのかな。そりゃ、彼への思いは、他の力士とは全く違いますよ。清國さんや、琴櫻さん、大麒麟、むしろ彼らとの対戦のほうが多く長いですよ。でもね、やっぱり思い出っていうのは、若くして亡くなったから、かえって深いんじゃないのかな。もっと取りたかったなっていう、今でもそんな気持ちはありますよ。彼がもっと長生きしてくれていたら、ひょっとして俺の人生も変わっていたかもしれない。現役を辞めてから、玉の海も部屋を持ってね、弟子を育てて、互いに親方をやっていたら……なんてね。たまに考えるよね」

玉の海が相撲人生を全うしていたら「北玉時代」はどう続いていたのか。引退後、指導者として、北の富士さんと並ぶような輝かしい時代を生きていたのか。残念ながら、結果を見ることはできません。

続きはぜひ単行本でお楽しみください

『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』刊行特集一覧

【「はじめに」試し読み】 死去の報道から1年。52代横綱・北の富士勝昭さんが上京した日に生まれた不思議な縁

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【「8章 語りの天才」一部試し読み】 妹、親友、行きつけの店主と女将が語る、素顔の北の富士の「粋」な男っぷり

【藤井康生さんインタビュー前編】 大相撲中継の名コンビだった52代横綱・北の富士勝昭さんとの交流と、ふたりをつないだ相撲愛

【藤井康生さんインタビュー後編】 「北の富士さんは生きる文献であり大辞典。その貴重な話でますます相撲が面白くなった。その魅力を見ている方に伝え続けたい」

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2024年11月12日、82歳での別れから1年。
「第52代横綱」として、「千代の富士と北勝海、2人の名横綱を育てた九重親方」として、「NHK大相撲中継の名解説者」として、昭和・平成・令和と3代にわたり、土俵と人を愛し続けた北の富士勝昭。

大相撲中継で約25年間タッグを組んだ、元NHKアナウンサーである著者が書き残していた取材メモや資料、放送でのやりとりやインタビューなどを中心に、妹さん、親友、行きつけの居酒屋の店主など、素顔の故人を知る人物にも新規取材。「昭和の粋人」、北の富士勝昭の魅力あふれる生涯と言葉を、書き残すノンフィクション。

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新刊紹介

藤井康生

ふじい・やすお/昭和32年1月7日生まれ、岡山県倉敷市出身。岡山朝日高校、中央大学法学部を経て、昭和54年4月、日本放送協会(NHK)入局。43年間のアナウンサー職を経て、令和4年1月、NHKを退局。大相撲は昭和 59年七月場所から約 38年間担当した。現在はフリーアナウンサーとして「ABEMA大相撲 LIVE」で実況を担当。公益財団法人日本相撲協会記者クラブ会友、JRA日本中央競馬会記者クラブ会友など多方面で活躍。
著書に『土俵の魅力と秘話』(東京ニュース通信社)がある。

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