2023.4.21
KERAと有頂天とナゴムと僕。5時間に及んだKERA還暦ライブを見ながら思ったこと
大槻ケンヂ、石野卓球、ピエール瀧……めくるめく豪華ゲストが登壇した還暦ライブ第二部
恵比寿ザ・ガーデンホールのKERA還暦ライブ。
休憩を挟んで第二部が始まると、KERAの両脇に大槻ケンヂと内田雄一郎が立っていた。
きた! これは空手バカボンの曲をやるぞ!!
スカスカでチープな80年代テクノポップサウンドと、大槻ケンヂいや大槻モヨコの異様なボーカルが、否が応でも僕の頭を高校生に引き戻す。
大槻&内田とKERAは10代の頃からの旧知の仲だから、このへんからは演奏よりも、MCという名のおしゃべりタイムのほうが長くなるのだが、爆笑トークばかりなので「もっともっとちょうだい」という思いで聞いていた。
12 バカボンと戦慄 PARTⅠ(空手バカボン『バカボンの頭脳改革―残酷お子供地獄―』収録)
13 おおもうけバカボン(空手バカボン『バカボンのススメ』収録)
14 福耳の子供(空手バカボン『孤島の檻』収録)
15 バカボンと戦慄 PARTⅠ(空手バカボン『バカボンの頭脳改革―残酷お子供地獄―』収録)
そしていよいよ犯罪者(KERA曰く)の登場。
石野卓球とピエール瀧、そして砂原良徳(元電気グルーヴのまりん)もステージに上がる。
「KERAさん、還暦おめでとうございます」「瀧こそ、出所おめでとう」の会話でつかみはOK。
そして1曲目はなんと、電気グルーヴの前身であり、曲者揃いのナゴムの中でも“極北”と目されていたバンド、人生の曲ではないか。
ナゴムからデビューした直後、池袋のインディーズ系レコードショップ・五番街でおこなわれたインストアイベントに馳せ参じたほど、人生を初期から追いかけていた僕にはたまらない選曲だ。
しかしKERAさん、自分の曲でもないのに「おててちんちん おててちんちん 2コちんちん」(『世界あの店この店』人生)って、嬉しそうに歌っていて何より。
今日のKERAが歌ったパートはかつて、コーラスとしてゲスト参加したきどりっこのてんちゆみとKERAが歌っていたんだよな……などと、マニアックなことをしみじみと思いだす。
でもこのホールの客席には、僕と同じようにかつてのナゴムの細かい思い出にひたっている人が、少なからずいそうであることが嬉しい。
KERA本人も言っていたが、ここはまるで往年のナゴム総決起集会。なんて素晴らしい空間なのだ。
KERAファンにとっては定番の“ケラさん逃げて”の話題や、「困ったらメルカリで売る」(KERA曰く)らしい紫綬褒章の話など、深夜ラジオのようなノリで飛び出した数々の爆笑トークを残して、卓球&瀧は去っていった。
16 世界あの店この店(人生『Substance Ⅲ』収録)
17 少年ヤング(電気グルーヴ シングル曲)
その後は再びバンド編成のステージとなり、中野テルヲ、みのすけ、元Cocoの宮前真樹、元ribbonの松野有里巳、元Qlairの今井佐知子、ナイロン100℃の犬山イヌコと三宅弘城などKERAゆかりの豪華ゲストが続々登場。
中野テルヲとみのすけは、1991年に有頂天を解散したKERAと3人で一時期、LONG VACATIONというユニットを組んで活動し、何枚かのアルバムもリリースしていた。ポップではあるものの捻りに捻った曲の多い有頂天とは違い、どちらかと言うとストレートで、爽やかささえ感じる楽曲が多く、当時隆盛だった渋谷系への、KERAからのアンサーとも囁かれていた。
当時の僕はKERAの新しい展開に驚きつつも、LONG VACATIOINにもあっという間に魅了されたものだ。
昔なじみのメンツが続々登場するので、当然、KERAのトークも絶好調。
時間も押しまくりだ。
楽しいながらも、「このライブは、あと何時間やるんだろう?」と少し不安になってくる。
KERAは「明日の午前四時までやるから」と言ってたけど、あれ、まさか本気なのでは……?
18 太陽の下の18才(LONG VACATION『SUNSHINE NOTE』収録)
19 夏の扉(LONG VACATION『1979』オリジナル・サウンドトラック収録)
20 傘と電話機(LONG VACATION『SUNSHINE NOTE』収録)
21 SUNDAY LOVE(LONG VACATION『SUMMER LOVERS』収録)
22 BEACH TIME(LONG VACATION『SUMMER LOVERS』収録)
23 LEGS(LONG VACATION『AFTER SUMMER LOVERS』収録)
猛々しいパンクから入ったインディーズ少年の僕が 有頂天とナゴムに心惹かれていった理由
あの頃、パンク&ニューウェーブをこよなく愛する僕のような中高生にとって、最大の情報源は雑誌だった。
僕は特に、雑誌「宝島」の熱心な読者で、毎号、隅から隅まで目を通していた。
だからきっと、その広告もリアルタイムで目にしていたのだと思う。
でも当時は「なんだこりゃ」と思って読み飛ばしていたのか、記憶に深く焼き付いてはいなかった。
「宝島」1984年12月号に掲載された、KERA主宰のインディーズレーベル、ナゴムレコードの初広告である。
ちなみに音楽の世界における“インディーズ”とは、ミュージシャンが自分たちの演奏する音源を、既存のメジャーレコード会社からではなく、自主的に立ち上げた小さな独立レーベルからリリースするというもの。
日本の音楽業界では1960〜70年代のフォークソングブームの頃からはじまり、1980年代のパンク&ニューウェーブ、1990年代のヴィジュアル&メロコア系、2000年代の青春パンク系、そして現代ではYouTubeや各種配信などのネット世界を主戦場とするボカロ系へと主役を変えながら、脈々と受け継がれる文化である。
さらにバックナンバーをチェックしてみると、KERA関連の記事が(おそらく)初めて出た「宝島」は、1984年2月号。
レコードレビューページにナゴムレコードの初アルバム、そして有頂天の自主制作デビューアルバムである「土俵王子」が紹介されている。
僕はこれもリアルタイムでは完全にスルーしていた。
だがナゴムレコードはその後、「宝島」に毎号、KERAの手描きイラストや手書き文字を使った手作り広告をしつこく出し続けた。
おかげで読者である僕はいつしか、ナゴムレコードのバンドたち、そしてKERA率いる有頂天のことを意識するようになっていた。
有頂天のビジュアルを初めて見たのは、「宝島」1985年5月号のグラビアページだ。
これは鮮明に記憶しているのだが、ピエロのようなメイクのKERAを見て、僕はネガティブな印象しか抱けなかった。
パンクが大好きだけど、なぜか感じる違和感。その心の隙間に入りこんできた有頂天
僕が高校に進学した1985年、世はまさにインディーズブーム時代を迎えていた。
有頂天は、ラフィンノーズ、ウィラードと並び“インディーズ御三家”の一角をなし、1980年代に爆発的に盛り上がったパンク&ニューウェーブの邦楽インディーズシーンを牽引していた。
当時の僕はパンクが大好きな少年だったので、高校に入って早々、前述の友達らとラフィンノーズのコピーバンドを組んだ。
パンク好きは50代となった今も、あまり変わりはない。
だけど、アンビバレンツで面倒くさい話なのだが、高校生だった当時から僕は、パンクが好きという強い気持ちを持ちつつも、常に何か違和感のようなものも覚えていた。
やっちまえ! 革命だ! ぶっこわせ! というストレートなパンクのノリに身を委ねるのが気持ちいいこともあるのだが、冷静に我が身を振り返ると、自分はそんなにかっこいいロックンロールな人間ではなく、猛々しくて勇ましくて強そうなパンクスと、不甲斐ない自己イメージとの間にギャップを感じざるを得なかったのだ。
そんな折、有頂天がシングル『心の旅』をリリースした。
自身の運営するナゴムレコードからではなく、「宝島」を発行するJICC出版局が立ち上げたキャプテンレコードからの発売だった。
インディーズには違いないが、準大手レーベルからのリリースだったためか、チューリップの名曲をカバーした有頂天版『心の旅』は、当時のインディーズ記録を塗り替えるスマッシュヒットとなる。
僕も発売直後に買ったこのシングルを、一日に何度も何度も聞いた。
そしてこの頃から、一気に有頂天の虜になっていったのだ。
有頂天は、まさに自分の世代のための新しいバンドのような気がした。
テクノのようでテクノではなく、パンクっぽいとこもあるけど、全然パンクじゃない。
そして可愛らしいところがあるから、女子にも大人気。
だけど、僕は感じていた。
一見コミカルで親しみやすそうな有頂天だが、実はめちゃくちゃひねくれていて、ストレートに突っ張ったパンクより、ずっと厄介な存在なのでは……。
今でもうまく表現できないけど、とにかくそんなヘンテコな有頂天とKERAから、僕は目が離せなくなっていた。