2021.11.19
逢坂剛×酒井順子“博報堂出身作家”対談 「自分をかわいがると、どんな仕事でも楽しみが見つかる」
この刊行を記念して、著者の逢坂剛さんとエッセイスト・酒井順子さんの特別対談が実現しました。
実は、お二人は、大手広告会社・博報堂の先輩後輩という間柄。共に、会社員時代から作家、エッセイストとして第一線で活躍を続け、30年来の知人でありながら、対談は初めて。
博報堂時代の思い出話からはじまり、どんな仕事も楽しむ方法や多彩な趣味についてなど、たっぷりと語っていただきました。
人生を前向きに、楽しみ尽くためのヒントが満載です!
(撮影/キッチンミノル、聞き手・構成/よみタイ編集部)
雲の上の方だった逢坂大先輩
――お二人の組み合わせを意外に思われる読者も多いと思うのですが、そもそも出会いのきっかけはどのようなものだったのでしょうか。
逢坂 意外だけど、対談するの初めてですよね。
酒井 そういえばそうですね。
逢坂 あなたが新入社員の頃に、広報室に連れてこられて紹介されたのが、最初じゃなかったかな。まだ女学生みたいで、小柄で、もうちょっときゃしゃだった。
酒井 すいません、もうきゃしゃじゃなくて(笑)
逢坂 いやいや、今でもじゅうぶん痩せているけど。こんなこと言ったら失礼だけど、あの頃は少女という印象でした。
酒井 私からすると、逢坂さんは、23年先輩で、雲の上の方だったので。それで直木賞も受賞されているということで、仰ぎ見る存在でした。
逢坂さんが広報にいらっしゃる前ずっと長い間いらしたPR局に、私は新入社員として配属されたんです。
逢坂 文筆が使える人は、PR局に行くことが多いんですよ。私が入社した時はPR本部と言っていたんだけど。
酒井 コピーを書く才能がないからPRに行ったのかと……(笑)
逢坂 私も、朝日新聞と文藝春秋の入社試験に落ちて博報堂にきて、それでコピーライターをやりたいと思ったわけ。入社当時、今はもう亡くなっちゃったけど、天野祐吉さんという広告評論家が研修の責任者だった。研修では日本航空のキャッチコピーをつくるという課題が出て、私は「ニッコウに乗らずしてケッコウと言うなかれ」というのを出したの。発表した時に、みんながどっと笑ったので、しめしめと思ったけど、それがどうも駄目だったらしくて、配属見たら、PR本部になっていたんです。「なんでPR? また志望が叶わなかった」と思って、最初は落ち込んだんだけど、実は長い文章を書くことが多い部署だった。PRの企画書とか、ニュースリリースとかね。だから、長い文章書ける人は、PR局だと思ったんじゃないかな。 あなたも同じで、その頃から書いていたわけでしょう。
酒井 はい、学生時代から書く仕事はしていました。私も一応、制作と当時のマーケティングの部署を希望したんですけど、両方入れず、PRに。PRって何なんだろうという感じだったんですけど、私が入社する3年前に直木賞を受賞された『カディスの赤い星』で一躍有名になった「PRマン」という存在は、ちょっと格好よく感じていました。
逢坂 でも、私が入った頃のPRとは違ったかもしれないな。『カディスの赤い星』(直木賞、日本冒険小説協会対象、日本推理作家協会賞受賞作/講談社文庫刊)は、入社して10年後くらいに、自分のPRマンとしての経験をもとに書いた。だから、あの頃まではそういう仕事をしていたわけです。ファッションショーをやって、記事を書いてもらうとかね。それからだんだん世の中が変わってきて、あなたが入った頃にはそういうものは、あまりはやらなくなっていたんじゃないかと思うんだよな。
酒井 やってはいましたが、時代がバブルになっていたので、コーポレート・アイデンティティー(CI)で会社のロゴを変えるとか、そういった大胆なお金の使い方をするが増えている時期ではありましたね。