2022.2.9
ネイサン・チェン、宇野昌磨、鍵山優真…元国際審判員の視点で北京五輪SPトップ3の技術の凄さを探る
フリー、総合ともに世界最高得点の演技
まず、ネクスト羽生世代のなかでも現在、圧倒的な存在感を放っているネイサン・チェン(アメリカ)を見てみましょう。彼の演技を見ていると、羽生が何度挑戦しても勝てなかった頃の、2013年に羽生がはじめて勝つ以前のパトリック・チャン(カナダ)を思い出します。スケーティングの基本技術が高く、大きな欠点も見当たらず、総合力の高い選手という意味です。しかも、おそらくネイサンはパトリックよりも上でしょう。
すでに実績は十分です。平昌五輪の直後に開催された世界選手権で初優勝。さらに翌19年には連覇を果たし、新型コロナウイルスの世界的流行で中止となった20年を挟んで21年にも優勝。また、グランプリファイナルでは17年から19年まで3連覇。すでに、オリンピック以外の実績では羽生と同格といっても間違いではありません。
彼が一体どんな演技をするのか。世界選手権で記録したフリーの世界最高得点を自ら更新した、19年のグランプリファイナルを見てみましょう。
まず、冒頭のスケーティングからわかるのは、エッジのコントロールが非常に巧いということ。そして、続く4回転フリップから3回転トウループのコンビネーション・ジャンプも、高さ、着氷とも完璧といっていいでしょう。このコンビネーションが彼の最大の武器ですが、特にそのリズムには目を見張るものがあります。ほかのジャンプも、計4本跳んだ3種類の4回転ジャンプを含めて、多くはGOE+4から+5の評価を得てもおかしくない演技(事実、このフリーでネイサンは、すべての要素で大幅なGOE加点を得ています)。そして、プログラムの終盤で見せたステップの鮮やかさと、トリッキーな動作を交えた表現力。224・92点という世界最高得点を記録するのも当然といえる演技です。
ちなみに、この大会ではショートプログラムも110・38点という高得点で、当然、総合得点335・30点も世界記録を更新しています。まさに、世界最高の演技を見せつけた形です。
ロマン派 vs バロック
羽生とネイサンは、独自の世界観を確立しています。ただし、両者の世界観は対極に位置しています。
羽生の演技が19世紀末のフランスで流行ったような流麗さ、華やかさを備えているとすれば、ネイサンはゴシック。あるいは、音楽にたとえれば、羽生がロマン派で、ネイサンはバロックです。こういった違いは、ふたりの衣裳からも端的に見て取れます。先ほど紹介した19年のグランプリファイナルでネイサンが着用していたのは、下が黒い無地のパンツ。その上に色は鮮やかなイエローを使っているものの、デザイン的にはシンプルなTシャツのような衣裳でした。羽生の、王子様然としたイメージを演出するような衣裳とは、そもそものコンセプトが真逆なのです。
こういった彼の醸し出す雰囲気がどこから来ているかといえば、おそらく育った環境にあるはずです。
父親は医学博士で、母親も医療系の通訳。しかも7カ国語を操るといいます。そんな環境で彼は育ちました。また、幼い頃からクラシック音楽に親しみ、現在もギターやヴァイオリン、ピアノなど数種類の楽器で演奏を楽しむと伝えられています。18年からは、アメリカの名門・イェール大学に進み、統計学を学びながら、修了後には医学のコースに進む予定だと聞いています。おそらく、フィギュアスケートを引退したあとは医師になるのでしょう。
もしかすると、ネイサンにとってはフィギュアスケートも、ギターやヴァイオリンと同じように、医師になるまでの期間に自分の人間性を高めるための〝通過点〟に過ぎないのかもしれません。ある意味で、プロ臭さが感じられない。その点でも、羽生とは対極にあるスケーターです。
第1章で「フィギュアスケートにはクラシック音楽やバレエなど、ヨーロッパ文化の精髄が息づいている」と述べましたが、ネイサンはそれらの要素を育った環境のなかで自然に身につけていったはずです。ネイサン・チェンという選手は、フィギュアスケーターの姿として古典、あるいは理想のフィギュアスケーターといっていいかもしれません。