2023.3.31
「子どものいないあなたにはわからない」で口を閉ざしてしまわないために――武田砂鉄×高瀬隼子 対談「父/母ではない立場から書くということ」
当事者ではなくても「わかる」ことはできる
武田 この本を書く前、大きい書店へ行き、出産・育児の棚を眺めていると、女性向けには、子育てや出産を選択しない、産みたくても産めない、あるいは子どもを失ってしまった経験について書かれた本が並んでいました。もちろん、コーナーとしては一緒になっているけど、それぞれ切実な思いが詰まっているわけです。その一方で、男性向けの本の並びを見ていると、パパ、イクメンなど、「父である」「子どもがいる」立場に向けたものしかなかったんです。その書店がそうだっただけかもしれませんが、「いる」に対して「いない」、「産む」に対しての「産まない」、向こう岸にあるものが用意されていないんだなと。そうか、自分は本棚に並んでいない側の立場なのかと気づいたときに、それをテーマにして書いてみようと思ったんです。
これまでも、妻と「子ども」や「家族」について話をしてきましたが、そのことだけを真剣に考えることはしてきませんでした。書き進めていくうちに、自分の中で、確かにこういう考え方もあるよなと、枝葉が広がっていく感覚がありました。
高瀬 何もしないことを選んでるというか、「ではない」側でいいじゃないかっていうことを否定する言説とかは時々目にするんですけど、私は「ありのままでいい」という言い方もちょっと広過ぎて、あんまり好きじゃないんです。
だから、どちらがいいとか対立するのではなくて、個を比較対象にしないでいこうっていう話を知っていたし、わかるけど、この本ではそれが知らなかった言葉で書かれてる、と思いました。
武田 「子どもを育てていない」っていう状態があるわけですよね。「いる」状態に対して、「いない」状態がある。本の冒頭にも書いたんですが、2018年に、『すばる』で写真家の長島有里枝さんと対談しました。そこで長島さんから「第三者」という言葉が出てきました。「当事者の切実な言葉を傾聴することが重要事項であることには違いないのだけれど、『第三者には言われたくない』と思ってしまうような意見が存在することと、第三者が語る行為そのものを切り離さないと、何も言えなくなってしまうのでは、という疑問も湧きます」(『すばる』2018年9月号「フェミニズムと『第三者の当事者性』」)と。第三者にも当事者性があるという話をそこでしてくださって、印象に残ったんです。
今、何かが起きると、まず、当事者の語りを待ちます。強引に取りにいく、という表現が似合ってしまう場面もありますね。当事者が何を思うかを聞くのはもちろん必要ですが、当事者というよりも仲介者が、「当事者が言ってるからこうだ!」「当事者が言ってないからこれはこうだ!」と活用し始めると、なんだかおかしな方向へ行ってしまう。
当事者の声、声のボリューム、発している人数によって物事が動いたり、動かなかったりする。当事者の声によってポジティブな方向に動くのは大切ですが、やっぱり動かないとなったときに、今度は当事者に責任を押し付けるようにもなる。それは違うと思う。当事者の側に任せるんじゃなくて、その周りにいる非当事者も考えていかないといけない。今回の本の場合は、「父親ではない」という第三者としての当事者性を書きました。サブタイトルにある「第三者として考える」というのはどんなことにでも言えることだなと思っています。
高瀬 私は結婚していて夫はいるんですけど、二人暮らしで子どもがいない。なので、「母ではない」という立場。でも母に限らず、「ではない」第三者である事柄って、いろいろあるよなっていうのを、同時並行で考え続けて読んだっていう感覚がありました。
本の中で、『母親になって後悔してる』(新潮社)っていう翻訳書が紹介されているんですね。母になりたい、なりたくない、子どもを産みたい、産みたくない、っていう本はありますけど、「なった後で後悔している」ことが書かれた本は、これまで読んだことがなかった。母親になって後悔している。ただ、それは目の前の子どもの存在に対しての後悔ではなくて、その子どもが嫌いだとか要らないという話とは全く切り離されて、親になっているという状態についての後悔が書かれた本。そこで書かれているのは母親になった当事者の声で、その後悔を私は経験したことがないのに、読んだときに「わかる」と思ったんです。完全に第三者で、本を隔てたこちら側で考えているけど、この「考える」が必要だから、その本があるし、その本のために、厳しい思いをして話してくださった方がいるんだと、そんなことを考えて読んでました。
武田 最近の政治の世界でいえば、性的少数者に対する差別発言をした首相秘書官が出てきた。育児休業中にリスキリング(学び直し)を、なんて無茶な議論まで出てきた。こんな時に、岸田文雄首相が「私自身、3人の子どもを持つ親として……」などという枕詞で、あたかも自分の話に説得力があるかのように肉付けしたんですね。「それ、別に関係ねえよ」と思う。しかも、彼のパートナーの過去のインタビューを読むと、「子育てはワンオペでした」と言っている。彼自身はあまり子育てしていなかったのでしょう。「私は経験があるからこういうことを言ってるんですよ」っていう、自分の意見を正当化させるために当事者性を上にくっつけることに対して、もっと警戒心が必要です。