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アナキスト・栗原康が「いきなり!ステーキ」を偏愛する理由

 いきなり、思想のはなしをしてみよう。わたしは自由よりも、自発ということばが好きだ。自由というと、どうしても「選択の自由」がおもいうかんでしまう。ほかでもなく、これこれこういう理由でこれを選択したのですと。みずからの意思でみずからの人生の目的をつかみとる。それが自由だ。しかしいつもおもうのだが、それは結局、自分をある目的のために道具的にあつかおうとしているだけなのではないか。自分をモノみたいに動員しているだけなのではないか。仮にオイスターについて、社長さんがこれだけもうかるからと理由をつけてなにかをやろうとしたら、みんなその目的の奴隷になってしまう。もうかるためならなにをしてもいい。オイスターじゃなくてもいい、ステーキじゃなくてもいい。みんなカネの奴隷だよ。
 もちろん、企業としてやっていくためには、そのもうけるという目的がだいじなのだろう。だが、人間としてはちがう。わたしが人間として真に自発をかんじるとき、そこに目的なんてありはしない、理由なんてありはしない。なぜ、「麦とホップ〈黒〉」がうまいとおもうのか。しるか。なぜ、あのひとを好きになってしまったのか。しるか。なぜ、この本がおもしろいとおもってしまったのか。しるか。なぜ、このリブロースステーキがおいしいとおもってしまったのか。しるか。なぜ、このオイスターがうまいとおもってしまったのか。しるか。理由なんてない。なにかのためではない。だれかのためではない。自分のためですらない。みずからの意思をこえて、雷にでも撃たれたかのように、なにか他なるものに衝き動かされたかのように、この世ならざる力に導かれたかのように、必然的にやってしまうものなのだ。やめられない、とまらない。だれにも制御できない力がある。無支配とはなにか。おのずと発する。それがアナーキーの自発である。

ただうまい肉をうまいといって食いたい

 その後の状況はみんな想像できることだろう。時代はそのままコロナに突入。なにかを察したかのように、わたしとかの女は二月後半、イオンモールにはしった。いきさきはもちろん、「いきなり!ステーキ」だ。いってみると、広いスペースに客はゼロ。ガランとしてだれもいない。うう、いきなりさんよう。おもわず、いちばんたかい熟成肉のステーキを注文してしまった。四〇〇〇円だ。味はどうだったか。プヒャー、めちゃくちゃおいしい~~~! お店のひとも気をつかってくれて、焼き加減はどうですかときいてくれる。せっかくなので、鉄板をあたためなおしてもらったら、肉がかたくなってしまった。だけど、そうしてくれたきもちがうれしい。泣きそうだ。うめえ、うめえと肉を喰らった。それがわたしのなかの「いきなり!ステーキ」のさいごである。

 四月七日、緊急事態宣言。お店は閉まり、そのまま潰れてしまった。それ以来、ステーキを食っていない。身体の一部をうしなってしまったみたいなかんじだ。いつだっておもう。金持ちか、貧乏人かではない。もうかるか、もうからないかではない。ただうまい肉をうまいといって食いたいのだ。肉にヒエラルキーなどありはしない。ちくしょう、腹がへった。肉が食いたい。アナキスト、モノを買う。燃えよ、いきなりステーキ!

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栗原康

くりはら・やすし 
1979年埼玉県生まれ。政治学者。専門はアナキズム研究。著書に『大杉栄伝―永遠のアナキズム』『はたらかないで、たらふく食べたい』『村に火をつけ、白痴になれ―伊藤野枝伝』『執念深い貧乏性』などがある。

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