2022.3.15
【佐藤賢一緊急特別寄稿】世界史から見るウクライナ情勢「ウクライナは引かない ロシアが引くしかない」
タタール人の軛
それから「タタールの軛」、つまりはモンゴル人のキプチャク・ハン国により、二世紀の隷属状態に置かれるのは同じである。が、モスクワ大公国は徐々に力を蓄えて、十五世紀にはその排除に成功した。南のビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされると、東ローマの帝冠の権威を受け継いで、いわゆるロシア帝国に成長する。キリスト教も受け入れていたが、この時代にギリシャ正教会における中心的役割も、モスクワ総主教が引き継いでいる。
キエフのほうだが、形ばかり大公は残りながら、やはり再起は容易でなかった。モンゴル人が退潮したあとも、隣国のポーランド、リトアニアの支配に甘んじることになった。キエフ≒ウクライナが自分の国を失くしたのは、このときなのだ。ロシアが出てくるのは十七世紀からで、はじめはポーランド・リトアニアとともにウクライナを分割し、十八世紀になってから、それを独占的にロシア帝国に吸収した。
それでもウクライナ人は同じ土地に住み続け、またウクライナ語という独自の言語を守りながら、自分たちのアイデンティティを失わなかった。モンゴル軍に破壊され、ポーランド、リトアニアには支配されたかもしれないが、ロシアに負けたわけではない。そう考えて、心根では決して屈従することなく、それどころか独立の機会を窺い続けた。
実際、ロシア帝国が革命で倒壊した一九一七年には、これを好機とウクライナ人民共和国を宣言している。が、それも一九年にはウクライナ社会主義共和国に変わり、一九二二年にはソビエト連邦に組みこまれた。そのソ連が崩壊して、ようやく念願を果たしたというのが、一九九一年のウクライナ独立だったのだ。
もう二度とロシアに支配されたくない。かかる思いは、宗教界の動きにも看取される。独立ほどない一九九六年から、キエフに総主教座を置こうという運動が始まるのだ。十六世紀このかた、ウクライナの教会もモスクワ総主教の傘下に入れられていたが、もうロシア人の教会には従いたくないということだ。自分たちのキリスト教はギリシャ正教として受け入れたものであって、ロシア正教ではない。ギリシャの北では、ウクライナこそ最初のキリスト教国である。かかる意識が今も強烈に働いているのだ。