2019.11.30
球団最後の優勝を経験した唯一の現役選手、岩隈久志が近鉄時代に学んだ大切なこと
急成長した岩隈の4勝がなければ、近鉄最後の優勝はなかった
20歳だった岩隈久志にとって、2001年のことは忘れることができない。プロ初勝利、初完封を記録し、リーグ優勝を成し遂げ、日本シリーズ初登板を果たしたからだ。
190センチを超える長身右腕が大器の片りんを見せたのはプロ1年目の2000年、シーズンオフに行われた黒潮リーグの読売ジャイアンツ戦だった。日本シリーズを控えた巨人打線を、149キロのストレートとスライダーだけで抑え込んだ。
梨田昌孝が監督に就任した2000年、近鉄バファローズのチーム防御率は4・66(リーグ4位)。先発投手の台頭が待たれるなかで、2001年春季キャンプで一軍メンバーに選ばれた岩隈はひそかに手応えを感じていた。
「プロ入り前、スカウトの人にも、『はじめは走るのが仕事』と言われました。もちろん、1年目は一軍で投げることなんか考えられませんでした。でも、もしかしたら一軍で投げるチャンスがあるかもしれないと思うようになりました」
2001年の近鉄は投手陣に不安を抱えていた。前川勝彦、門倉健という経験のあるピッチャーはいるものの、安定感には乏しかった。“いてまえ打線”が奪ったリードを救援陣が総出でなんとか持ちこたえて勝利を積み重ねていたが、苦しい戦いを強いられていた。
岩隈は5月29日の日本ハムファイターズ戦でリリーフ登板し、初勝利をマークした。6月10日に初先発したあと、二軍落ち。
8月19日の福岡ダイエーホークス戦で先発して勝利をおさめた。岩隈が挙げた4勝がなければ、近鉄の優勝はなかったはずだ。
「初めて先発登板したとき、3回で5点も取られて降板したんですけど、簡単に打たれてしまったんです。そのとき、投手コーチの小林繁さんに『かわすんじゃなくて、もっと気迫のこもったボールを投げるように』と言われました。一軍では『うまくやろう』じゃダメなんだと思いました」
岩隈は二軍で心と体を鍛え、優勝争いをするチームに加わった。
「優勝争いしているときだったんで、ものすごく緊張しましたが、『気持ちをこめて、思い切って投げよう』と思いました。キャッチャーの古久保健二さんのミットだけを見て」
背番号48の岩隈が、疲労の色の濃いチームの救世主となった。
「リリーフで1勝、先発で3勝、完封勝ちもできました。1試合1試合を、ただ必死で投げました。キャッチャーの古久保さんや野手の方に声をかけていただいたおかげで、いいピッチングができました」