2025.1.22
コロナ禍の激鬱会社員生活……それでも実家には帰らない理由とは 第21話 私は帰らない
『まじめな会社員』で知られる漫画家・冬野梅子が、日照量の少ない半生を振り返り、地方と東京のリアルライフを綴るエッセイ。
【前回まで】:なかなか長続きしそうな職場に巡り合えない冬野さん。今回こそはと思ったタイミングで、コロナ禍がやってきて……。
(文・イラスト/冬野梅子)
第21話 私は帰らない
次の職場は、神田の近くにある医薬品関連の会社だった。営業部はスーツ、事務の女性は制服という昔ながらのお堅い雰囲気は、最初に勤めた金融機関に似ていた。朝礼もあるし、残業申請や遅延届などは紙に書いて提出するし、年配の社員も多く、オフィスというより営業所と呼んだほうがしっくりくる。心躍る要素のない社内だが、もともと私はそういう地味な職場が似合う人間だし終の住処にぴったりだろう。生活のため、ここで末永く頑張ろうと思った。それに家からは遠いが、古い喫茶店や立ち食いそば屋が多いので、仕事帰りに寄ることを想像するとワクワクした。たまに行くライブハウスも近くなって、給料も良くなるので気兼ねなくライブも楽しめるだろう。制服があるのがネックだが、サクッと仕事を終わらせて、オフィスカジュアルではない本当の私服に着替えて、喫茶店で時間を潰してライブに行く、そんなアフター6を思い描いた。
ところが、入社してすぐコロナ禍が始まった。ほとんどのライブは中止となり、喫茶店なども時短営業に入り、私のプライベート充実計画は早々に頓挫した。1時間近くかけて通勤し、制服に着替える分ちょっと早く出勤して席につき、単調な仕事と眠気に耐える毎日。正直だるい。入社したばかりなのでまだまだ振られる仕事が少ないが、直属の男性上司の仕事量は多いようで毎日残業している。今後、大量に仕事を振り分けられる危険性があるので、まずは「残業しない人」というイメージを定着させる方が先だろうと判断し、「他に何かやることありますか?」の声かけは夕方以降減らすように心がけた。
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まずは5年頑張ろうと思って入社したが、プライベートの充実が消え失せた今、働くモチベーションが皆無になり、会社の全てが煩わしい。「会社での自分は捨てアカ」と言った人がいたが、全くその通りである。ここにいる私は、「リポストしたら抽選でコンビニスナックがもらえるキャンペーン」専用のアカウントだ。毎日「○○当てようキャンペーン」を淡々とリポストするだけ。今やその捨てアカが生活の全てとなってしまった。なんかもう、どうでもいい。ついでに、私はおそらくこの男性上司と相性が悪い。上司は丁寧でいい人だが、そのせいか社内の全部の仕事を引き受けてデスクもろとも盛大にパンクしているし、引き継ぎも余裕がないせいか段取りの「だ」の字もない。「今いい?」と上司の手が空いた時に仕事を教わるのだが、突然声をかけられたかと思うと「じゃあまず、そこクリックして、で、ここダブルクリック、で、『開く』を選択して…」と、エクセルの基本的な操作も全て説明する。一度、「セルの追加ですね? できます」と言ってレクチャーの時短を試みたが、結局いつも一つ一つの動作を説明されるのだ。だんだん、毎朝ギリギリに出社して、タバコ休憩のために頻繁に離席し、来月も使えるデータを毎回削除するこの上司の行動全てが耐えられなくなってきた。なんか、忙しそうだけど行き当たりばったりというか……。
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そんなある日、上司との面談で「残業についてどう思う? 」と質問された。私は、目上の人から繰り出される「どう思う? 」というふわっとした質問が嫌いだ。私の残業論なんかを聞きたいわけではなく、残業がイケるクチか知りたい、残業OKの言質をとりたいのだろう。だけど、強要した形にはしたくないのでハッキリと残業してほしいとは言わない。当然、「嫌です」とは言えないので「正当な残業であれば仕方ないと思う」という方向で答えたが、うんざりした。行き当たりばったりっぽい人なのに、こういう質問の時だけは策を練るのか。そもそも、この上司と私では帰宅後の過ごし方が違うだろう。上司のプライベートはよく知らないが、家族と同居しているのは確かだった。だとしたら、家に帰れば温かいご飯が用意されているのでは? 風呂もお湯が張ってあって、洗濯物も洗濯機に入れておけば明日には引き出しに戻っているのでは? 主夫を担っている可能性もゼロではないが、どうしても、仕事“だけ”していれば生活が回る人に見えて、素直に聞く気にならない。
そんな中、講談社の賞に応募した漫画「普通の人でいいのに!」が奨励賞を貰えることになった。大賞ではないが、漫画が公開されると予想外に反響が大きく、生まれて初めて「バズ」を経験した。SNSはフォロワーが増え、漫画の感想はいいものも辛辣なものも、単なる中傷めいたものもどんどん更新されていく。今までバズったことがなかったので、インターネットの悪意と好奇心が悪魔合体して目が覚めたら部屋の窓ガラスが割られているなんてことはないだろうか……そんな怖い想像もしたが、相変わらずの生活が続いた。
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その年は帰省しなかった。ソーシャルディスタンスを兼ねて東京に留まり、地元では映らない「テレ東」を見て過ごす年末は新鮮だった。かつては夏と冬に帰省していたが、3年前から年末だけになり、実家に滞在する日数も2泊ほどである。最初は、なけなしの給料を夜行バスのチケットに溶かし涙目になったものだが、ある時から、新幹線で帰ってきなさいと切符が送られてくるようになった。当時は4万円近くの新幹線代など自分では捻出できず、お金のことには触れずにシレッと帰省していた。雪景色は好きだが、曇天の閉塞的な町に自分の人生を重ね、いつも暗い気持ちになる。
金銭面の援助を受けるのは癪だったが、かといって「今年は帰らない」と言う勇気もなかった。20代の頃の私は、今後地元に戻る気はないということを親に悟られると、力ずくで東京からひっぺがされ、ズルズルと実家に引きずり戻されることを恐れていたからだ。だから、年末に会った親戚やご近所さんに、「東京の方が楽しくて帰ってこねべ?」とおどけたように言われる時も、曖昧に笑って何も明言しないように努めていた。そのせいだろうか、いつの間にか、地元には就職先がないから仕方なく東京に留まるほかないのだというストーリーが出来上がっていた。父が「おめ帰って来い」と冗談混じりに言い、私がうんざりした顔を作り、すかさず「こっちだば仕事ねがらなあ」と母が割って入ることがよくあった。父と不仲である私への助け舟にも見えるが、「私は帰らない」と言葉でハッキリ宣言されるのを避けているようにも感じる。そういう私も、地元には帰りたくないが東京でやっていける見通しも乏しいため、このやりとりを鬱陶しく思いつつも啖呵を切ることもできないでいた。
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