2020.7.28
見たことすらない三匹の犬の話でビールがすすむ夜
いや、友人の話だった。
高校生が夜遅く出歩くのを彼の両親がよく思うはずもなく、親が寝たのを見計らってこっそり家を出て行く必要があった。だから両親が眠りについた気配を繊細に察知し、慎重に事を進めなくてはならない。音を立てないように自分の部屋のドアを開閉し、そろりそろりと廊下を歩き、静かに靴を履いてようやく夜道へ歩き出す。
秋田の片田舎に住んでいたという友人。あたりには夜道を照らす街灯もなく、静まりかえった暗闇を歩いていく。家のすぐ近くには墓地があり、その前を通るのがいつも怖かったそうだ。
チコ、クンタ、ノノ……友人たちの記憶に残る三匹の犬たち
その日もいつも通り、気配を殺して家を出て、いよいよ墓地の前にさしかかるところだった。
緊張しながら息を詰めて足早に通り過ぎようとすると、後ろから「ひた、ひた、ひた」と何かの歩く音がする。幽霊を見たことも金縛りにあったこともない友人だったが、「ついにきた!」と鳥肌が立ったという。
身を縮めるようにしてゆっくり後ろを振り返ると、そこにはチコの姿があった。飼い犬だ。
当時4歳ぐらいだったという雑種のチコ。
普段は家の前の犬小屋で飼い、夜は寒くなるので屋内に入れていた。その日、友人は家のドアをきちんと締め切らずに出てきてしまったようで、隙間から抜け出したチコが静かに追いかけて来たのであった。
「まあ、ドアが開いてたから犬が追いかけてきたっていう、それだけの話なんですけど」と語る友人。
「その後はどうなったんですか?」と聞くと「それが、一度チコを連れて家に戻ったはずなんですけど、その後に友達の家で遊んだ記憶がないんですよ」と言う。
肝心の楽しい時間の記憶が消えさるほど、犬が追いかけてきてびっくりしたということだろうか。
チコはその時、いつもと違う特別な深夜の散歩が始まると思ってドキドキしただろうか。高校生が夜中の集会にテンションを上げるように、チコの胸も高鳴っていたかもしれない。
他にもチコのことを色々と聞いた。
本当は「チョコ」と名付けたかったのにどうしても祖母が「チョコ」と発音してくれず、「チコ。チコよ」と呼ぶので、他の家族が折れる形でその名に定着したこと。チコがその後も10年ほど生きたこと。
それから少し日が経って、別々の友人から、立て続けに昔飼っていた犬の話を聞くことになった。大阪の郊外に住んでいた友人は、子どもの頃にクンタという犬を飼っていた。クンクンと鳴くからクンタという名が付いた。茶色い毛色の雑種犬だった。
庭で放し飼いにしていたそうなのだが、ある日、近所に住む人が慌てた様子で「お宅のワンちゃん、道路に出てるで!」と知らせにきた。
急いで探しに行ってみると、家から少し離れた大きな道路の真ん中にあおむけになっているクンタが見える。そしてその周りを避けるようにして車が走っていく。
「もしや轢かれたか!」と思い、車通りが収まったタイミングで駆け寄ってみると、クンタにはケガ一つなく、どうやらいつもより遠出して大きな道路へ飛び出たものの、交通量の多さに驚いてその場で腰を抜かしてしまったらしい。
それ以来、クンタはその道路に再び出ることなく穏やかな一生を終えたそうなのだが、友人の脳裏には今もそのギョッとした光景が焼き付いているんだそうだ。