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116㎞を走っても笑顔の人・24時間テレビ「募金ラン」の高橋尚子に習うべきこと~高橋尚子(元陸上競技選手)

高橋にとって「走ること」とは何なのか、を改めて考えさせられた

この企画に対する違和感は多くの人が感じたようで、ネット上では賛否両論の声が上がった。

否定的意見の多くは「普通に募金をすればいいだけの話ではないか、偽善ではないか」というものだ。こうした意見に対して高橋自身は「私が今できるのは走ること」と番組内で自らの見解を述べていた。
そもそも「偽善」という批判は『24時間テレビ』には常について回るもので、特に「募金ラン」のみが該当するとは思わない。結果的に多くの募金がなされて救われる人がいるならば良いことだろう。私が抱いた違和感はそこにではなかった。
「ひとは、目標を持たないまま苦しみ続ける人を見たいのかどうか」という点であった。

マラソンや駅伝を応援する人は何を見ているのか。時に苦悶の表情を浮かべ、足元がふらつき、それでも走り続ける選手を観客は応援する。それは、選手達が「ゴール」「記録」という明確な目標を持って走っていることが分かっているからである。力尽きて棄権する選手達に涙するのも、目標を断念する悔しさに共感するからではないだろうか。例年の『24時間テレビ』のチャリティーマラソンに視聴者が感情移入するのも、そうした要素によるものだと思う。

ところが「募金ラン」には明確な目標がない。一応目指す距離はあるものの、それを超えて走ってもよく、更には走り続けることで自らの財布は細っていく。もしアクシデントがあって途中で断念することがあったとしても、別に誰も困ることはないのである。そんな状況で苦痛にあえぎながら走り続ける人の姿を見て、私たちは何を思えばいいのだろうか。賽の河原で石を積み上げる子どもを見続けるような気分にならないだろうか。

しかし、である。高橋は終始笑顔であった。
116㎞を走り、最後は「チームQ」の5名とともに揃ってラストスパートをかける時も笑顔であった。人生最高の走行距離が80㎞であるという高橋にとって(「スポーツ報知」2020年8月24日)、116㎞は過酷な距離だったはずだ。更に走っている間に足がつるなどのアクシデントもあったが、見ている側には悲壮感は微塵みじんも感じられなかった。

思うに、高橋にとって「走ることそれ自体」が目標なのではないだろうか。
現役時代のレースを振り返っても、高橋が苦悶の表情で走っている姿をあまり思い出せない。
我々はしばしば結果にのみ着目しがちなのだが、「過程を楽しむこと」も大切なのではないか、と高橋に教えられた気がしている。
 

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オギリマサホ

1976年東京都出身。イラストレーターとしてシュールな人物画を中心に雑誌や書籍などで活躍。中学1年までは巨人ファンだったのが、中2のときに投手王国・広島カープに魅せられ、広島ファンに転向。そのカープ愛が炸裂するイラストエッセイ『斜め下からカープ論』を刊行。野球のみならず、広くスポーツ界を愛している。
Twitter@ogirim

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