2025.10.16
恋愛工学の「セックスから逆算された合理性」に囚われていた僕を『バキ』が救ってくれた【平成しくじり男 第3回】
「同意から逆算された合理性」
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ちょうど一年前のことになるが、雑誌『ダ・ヴィンチ』の企画で、官能にまつわる本や漫画を紹介してほしいと原稿を依頼されたことがあった。中学生のころに読んで衝撃を受けた格闘漫画『バキ』のセックスシーンについて書こうと思い、改めて『バキ』を読み直してみた。するとそこには、あの頃の自分に欠けていたものが描かれていた。
『バキ』のあらすじはこうだ。
主人公は、天才格闘少年・範馬刃牙。父であり地上最強の生物でもある範馬勇次郎を倒すために修行している刃牙は、高校の同級生で下宿先の大家の娘でもある梢江と恋仲になる。
とある日(以下『バキ 13』参照)。刃牙が下宿先の布団のなかで寝ていると、シャワーを浴びた梢江がいきなり布団のなかに入ってきて後ろから刃牙に抱きついてくる。とつぜんの状況に刃牙がしどろもどろしていると、お化けのようにどこからともなく父・勇次郎が部屋のなかに仁王立ちで現れ、鬼の形相で刃牙のことを睨みつけながら叫ぶ。
「強くなりたくば喰らえ!!!」
それだけ言うと勇次郎は部屋から消える。残された刃牙と梢江は、とつぜんの出来事を整理するようにゆっくり会話しはじめる。
梢江「喰らう……の?」
刃牙「やるよ 君とセックスをする」
梢江「強くなりたいから?」
刃牙「ちがう したいから オレが君と── 梢江とだけしたいからする 親父の言葉──それはそれ それとこれとは無関係だ」
梢江「よかった……」
刃牙「次 次回二人が会うとき俺は君とする」
梢江「うん」
その日はなにもすることなく解散し、後日、2人は刃牙の家で落ち合う(以下『バキ特別編 SAGA』参照)。
「きた………ッッこの日が……!!! セックスの………………日…ッッ」
心の中でそう叫びながらはじまった緊張感に満ち溢れるセックスは数日の間に渡って続き、気づけばティッシュが7箱も空になっていた──
僕は中学生のころに初めてこのセックスシーンに出会い、とんでもないものを読んでしまったと驚愕した。濡れ場のシーンだから強く脳裏に焼きついただけだと思っていたが、改めて読み直してみると、それだけではないことに気づかされた。「セックスから逆算された合理性」とはまったく別の合理性に基づいたセックス観が、そこには描かれていたからだ。
それは一体どのようなセックス観なのか。その説明をするために、弁護士の加藤博太郎さんに取材したときの話の続きをまずしよう。
男性のほうは性行為に同意があったと主張し、女性のほうは同意がなかったと主張している場合、実際に司法の現場ではなにをもって同意・不同意の判断をしているのだろうか。加藤さんに伺うと、「セックスをするまでの過程で逃げる隙があったかどうか」がひとつの基準になっているとのことだった。
たとえばホテルや自宅へタクシーで直行していたり、入り口で女性の手を引っ張ったりしていると、相手の逃げる隙が失われているので不同意と見なされる可能性が高い。ホテルや自宅へ向かう途中でコンビニに寄っていたり、そこで男性がひとりトイレに行ったりしていると、逃げる隙が十分にあったのにそうしなかったから同意があったと見なされる可能性が高い。つまり、状況を選択できる自由さの度合いによって、意思があったかどうかが判断されるということなのだ。
その話を聞いた瞬間、『バキ』のセックスシーンに描かれていることがやっと腑に落ちた気がした。
刃牙は梢江に「次回二人が会うとき俺は君とする」と言って、その場の雰囲気に流されてセックスをするのではなく、日を改めることにした。そして後日、梢江は自ら刃牙の家に歩いて向かう。セックスを後日──つまり、やるかやらないかを自由に選択できる状況──にしてまで刃牙が確認したかったもの。それは、梢江の意思だったのではないか。
恋愛工学のような平成で流行ったモテ指南の論理に従えば、チャンスが目の前にあるのならば、有無をいわさずスムーズにセックスをするべきである。しかし刃牙にとってはセックスという行為そのものよりも、双方の意思こそが優先すべき目的なのであり、セックスはあくまでその結果だった。それは、「セックスから逆算された合理性」とは異なる、「同意から逆算された合理性」とも言うべき合理性に基づくセックス観だと言えるだろう。そしてそれこそが、平成のモテ指南のなかでは決して語られてこなかったセックス観なのであり、むかしの自分に欠けていたものだったと思ったのだ。
*
では一体どうして、「セックスから逆算された合理性」に基づくセックス観にむかしの自分は染まってしまったのだろうか。
そのヒントも『バキ』には描かれているように思うのだ。部屋にとつぜん現れた父・勇次郎に「強くなりたくば喰らえ!!!」と叫ばれた直後の、刃牙と梢江との会話のシーンだ。
刃牙「君とセックスをする」
梢江「強くなりたいから?」
刃牙「ちがう したいから オレが君と── 梢江とだけしたいからする 親父の言葉──それはそれ それとこれとは無関係だ」
「強くなりたいから?」という梢江の問いかけに、「ちがう したいから」と刃牙はストレートに返す。「強くなりたい」という欲望のためにセックスをすることを、刃牙は明確に否定するのだ。
この2人の会話シーンを読んで、どうしてむかしの自分が相手の気持ちを考えずにセックスをしようとしてしまったのか、わかった気がした。当時の僕は「強くなりたい」という欲望のために、セックスをしようとしてしまっていたのだ。
ナンパ師のKに「僕が君だったらもうセックスできてるよ」と言われたことが悔しくて、どうにか見返してやろうと思って、セックスをしようとしていた。僕にとってのKは、刃牙にとっての勇次郎のような存在だった。「強くなりたくば喰らえ!!!」という挑発を刃牙は否定することができたが、僕はできなかった。Kのように「強くなりたい」という気持ちで頭がいっぱいになり、相手の気持ちを考える余裕がなくなってしまっていた。
思えば、恋愛工学を世に広めた『ぼくは愛を証明しようと思う』にも同じ構造が見てとれる。主人公の非モテ男である渡辺が、モテまくりの永沢さんという存在に憧れて、女性を喰らいまくる恋愛工学という技術を学んでいく。渡辺にとっての永沢さんは、刃牙にとっての勇次郎のような存在だった。そんな永沢さんのように「強くなりたい」という気持ちが、渡辺を「セックスから逆算された合理性」に基づくセックス観へと駆動させいく物語だった。
平成の時代にありふれていたモテテクニックやセックス観の根底には、そうした「強くなりたい」という欲望があったと思うのだ。「強くなりたい」という身勝手な欲望のためにセックスを利用しようとすること。それこそが、相手の意思を蔑ろにするセックスを生み出しているのではないだろうか。
そんな「強くなりたい」という欲望に否を突きつけること。そうしてはじめて、相手の意思を尊重するセックスへの道が開かれる。
『バキ』が教えてくれたのは、そういうことだったと思うのだ。
(第3回・了)
次回連載第4回は11/20(木)公開予定です。
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