2025.10.16
恋愛工学の「セックスから逆算された合理性」に囚われていた僕を『バキ』が救ってくれた【平成しくじり男 第3回】
「平成」という時代に生まれ育った男たちが苦境に立たされている──彼らはなぜ"しくじって"しまうのか?
前回は、平成生まれの男が「一か八かの告白」をしてしまう現象を考察しました。
今回は「性的同意」や「恋愛工学」について、山下さんの実体験を基に考えます。

記事が続きます
流行した「恋愛工学」と呼ばれるモテテクニック
平成のセックス観を引きずっていると、逮捕されるらしい。
*
2023年7月6日。不同意性交等罪が施行され、同意のない性行為は刑事罰の対象となった。不同意性交等罪は従来の強制性交等罪を改定・拡充したもので、予想できなかった状況や、権力勾配のある関係性、アルコールを飲んだ状態における性行為などが、新しく刑事罰の対象に含まれるようになった。
セックスの正当性の基準を「同意の有無」という点にしたことがこの法律の新しいところなわけだが、同意というのは複数の人の意思に関わることなので、どこからが同意でどこからが不同意なのか、その境界線は明確ではない。
では実際に、どのような人がこの罪で捕まっているのだろうか。
不同意性交等罪に詳しい弁護士の加藤博太郎さんに取材で伺ったことがあった。どうやら捕まる人の90%以上が男性で、計画性がある人は少なく、警察が家に来てはじめて自分が加害者であることに気づくようなのだ。そしてみな口を揃えて「同意があったと思った」と言うらしい。
男性のほうは同意があったと主張し、女性のほうは同意がなかったと主張する。そうしたディスコミュニケーションが起こってしまうのはどうしてだろうか。続けて加藤さんに伺うと、「昭和・平成で流行っていた男性観やモテテクニックから価値観がアップデートされていないからだと思います」ということだった。
平成の時代にありふれていた男性観やモテテクニックを信じたままでいると、今や逮捕される時代になったということだ。平成4年生まれの僕からすると、それはとても他人事とは思えなかった。
*
僕が大学生だった2010年代前半。書店ではモテ指南書が流行っていた。なかでもセンセーショナルな話題を巻き起こしていたのが、「恋愛工学」と呼ばれるモテテクニックだった。
恋愛工学とは、作家の藤沢数希さんが提唱したもので、男性が女性に効率的にモテるための方法を科学的に分析・体系化し、再現可能な方法論に落とし込もうという考えのことだ。
2015年にベストセラーとなった『ぼくは愛を証明しようと思う』という小説は、そんな恋愛工学を物語形式でわかりやすく日本に広めた本だった。
その物語のあらすじはこうだ。
主人公は、27歳で弁理士の渡辺正樹。結婚を考えていた恋人に浮気され傷心していたところ、友人に誘われ六本木ヒルズのバーに飲みにいく。店内では、ドレス姿の美女3人組がスタンディングテーブルで飲んでいた。
しばらくすると、渡辺のクライアントである永沢さんという男性がその店に1人でとつぜん現れ、その3人組の美女と仲良く話しはじめたかと思うと、ものの15分ほどで3人の中で一番の美女とキスをし、連絡先を交換して去っていった。
その光景がまるで魔法みたいだったと衝撃を受けた渡辺は、翌日さっそく永沢さんにメールを送り、自分もモテるようになりたいと教えを乞う。それがきっかけで渡辺は永沢さんと頻繁に2人で会うようになり、ナンパやデートの実践を通して恋愛工学を学んでゆく。
「デートプランには、常にセックスから逆算された合理性が必要だ」と永沢さんが言った。
「逆算された合理性?」
「簡単に言えば、その日のうちに、スムーズにベッドの上まで女を運ぶための合理的なロジスティクスのことだよ」
恋愛工学における「モテる」とは一体どういうことなのか。それは、その日のうちにスムーズに女性とセックスができるようになるということだった。そのために渡辺が永沢さんから学んだ数々の方法論は、「セックスから逆算された合理性」に基づくものだった。
たとえば、相手がイエスと答える質問をいくつかしてから自宅に誘うとイエスと言わせることができる「イエスセット」、一緒に見たいDVDがあるから家に来ないかと誘うと家に連れ込みやすい「DVDルーティン」、髪の匂いを嗅ぐふりをするとその流れのままキスができる「フレグランスルーティン」…etc.
今の時代からすると、こうした方法論は法に触れかねないものにしか思えないが、平成の世の中においては、別に『ぼくは愛を証明しようと思う』だけがこうしたモテ指南をしていたわけではなかった。
さらに遡ること8年前。2007年に発売されベストセラーとなった非モテ男性向けのモテ指南書『LOVE理論』のなかにも、似たような方法論は散見される。
たとえば、タクシーを捕まえて自分と運転手の2人でプレッシャーをかけることで家に連れ込めるという「タクシー理論」、部屋のなかで唯一3つの面が壁に囲まれていて逃げるのが難しい玄関でキスをすべきだという「バタンチュー理論」…etc.
平成を通して男性に指南され続けていたモテテクニックというのは、その日のうちにスムーズに女性とセックスするための、「セックスから逆算された合理性」に基づくものばかりだったのだ。
*
あまり思い出したくない過去なのだが、僕もそんな「セックスから逆算された合理性」に染まってしまったことがあった。
20代前半のころ。知り合いに紹介されて、とあるナンパ師の男と知り合った。そのナンパ師のことを、仮にKとしよう。
Kは僕より少し年上で、noteでナンパ術に関する文章を書いて売っている人だった。「ナンパ師」という肩書きの響きに最初は警戒していたけれど、飲み屋で話を聞くと、Kは元々モテなかった自分を変えたくてナンパを始めたらしかった。僕もモテないことに悩んでいたから、コンプレックスの部分でKと意気投合をして、それから2人でよく飲むようになった。
僕はKからいろいろなことを教えてもらった。女性との会話の仕方や、手の繋ぎ方、ホテルの誘い方から、セックスの仕方まで。それこそ恋愛工学というものがこの世にあることも、Kから教えてもらったことだった。
正直に言うと、最初のほうはKの話を話半分に聞いていた。いくらモテる方法を口にしていようが、実際に目の前で実演されてみなければKが本当にモテるかどうかはわからないからだ。そのことを飲み屋でKにぶつけてみると、それなら今から一緒にキャバクラに行こうということで、2人でキャバクラに行ったことがあった。
それまでキャバクラに行ったことがなかった僕は、隣に座った綺麗なキャバ嬢と目を合わせることもできなかった。そのことをKと、Kの隣に座っていたキャバ嬢から笑われたのを覚えている。
2時間くらい飲んだところでお会計をすると、Kはそこで仲良くなったキャバ嬢と一緒に帰る約束をしているといい、僕はひとりで家に帰ることになった。キャバ嬢と一緒に帰るKの背中を眺めていたら、それこそ、まるで魔法みたいだと思った。
それからまた別の日にKと一緒に飲んでいたときのことだ。たまたま飲み屋で近くに座った女性と仲良くなり、僕はその人のことが気になった。その女性と連絡先を交換してもらい、デートをするような関係になった。デートをしたあとは決まって、飲み屋でKにその恋愛の進捗の報告をした。
その女性との会話のやりとりやLINEのやりとりをKに伝えると、Kは僕がいかにその女性にいいように利用されているのかを熱弁してきた。僕はそんな風には思わないと反論したが、「セックスは誘ったの?」と聞かれ、「誘っていない」と返すと、「そうやっていつまで経ってもセックスをさせてもらえないまま向こうの言いなりになるだけだよ」とKは言い、それから続けて「僕が君だったらもうセックスできてるよ」と言ってきた。
僕はKとの実力差を見せつけられているような気持ちになり、だんだんと悔しいという思いが込み上げてきた。「そうは言われてもどんな風にセックスを誘えばいいのかわからない」と僕が言うと、「お酒を飲んだあとに散歩をして、途中で手を繋いでその流れのままホテルに行けばいいんだよ」とKは教えてくれた。次のデートの日にそれを試してみようと思った。
それから後日その女性と飲みにいき、Kの言うとおり店を出てから散歩に誘った。途中で手を繋いで、ホテル街のほうに向かう。そしてホテルの目の前まで来たときだった。彼女は立ち止まって、こちらを見つめながら言った。
「ねぇ、もっとこっちの気持ちとか考えないの? なんか怖いよ」
そう言われた瞬間、我に返った。自分は彼女の気持ちを考える余裕がないほどに、セックスをしようとすることで頭がいっぱいいっぱいになってしまっていた。もし彼女が我慢をしてそのままホテルに入っていたら、僕は同意があったと思い、彼女は同意がなかったと思うようなすれ違いが起きていただろう。そう考えると、自分のことが恐ろしかった。
それからさらに自分が恐ろしいと思ったのは、セックスができないとわかったとたんに、その女性に対する興味が急速に覚めていったことだった。自分は彼女の人柄に興味があるのだと本気で思っていたが、その興味は、セックスを断られたら失ってしまう程度のものだったのだ。
自分でも認めたくはなかったが、それこそ「セックスから逆算された合理性」によって、彼女のことをセックスの手段としてしか捉えられなくなっていたのだ。セックスができないのであれば、関わる意味はもうないと思った。そんなふうに思ってしまう自分は、なにか人として大切なものが欠けているのではないかと思った。
記事が続きます