2020.1.18
今川氏真―暗愚なボンボンのレッテル
幸福≻名声
一口に「歴史を著述する」と言っても、記すのが人間である以上、そこには様々な“意図”が含まれます。先祖を称賛したい。誰かを貶めたい。あるいは、複雑な情勢を単純化して、わかりやすくしたい。
氏真は、そうした“意図”の被害者と言えるのではないでしょうか。氏真が暗愚で文弱な当主であったがゆえに、今川家は滅びる定めにあったのだ。父の仇も討たず蹴鞠に没頭していた氏真は、武士失格だ。そんな後世の、特に江戸時代以降に記された批判には、「武士とはいかにあるべきか」という倫理を示す意図が垣間見えます。そうした人々にとって、氏真は恰好の「悪い見本」でした。結果、氏真は実像をはるかに下回る「ポンコツ大名」にされてしまったのです。
無論、弱肉強食は世の定め、隙を見せれば付け入られるのが戦国の習いです。しかし、織田信長、徳川家康、武田信玄という戦国時代きっての名将たちに取り囲まれた氏真に、いったいどれほどのことができたでしょう。
父と多くの重臣たちを討たれ、同盟相手に裏切られながら国を保つことなど、どんな英雄豪傑でも不可能だったように思えます。むしろ、この局面を打開できる才覚があったのなら、氏真は天下を獲っていたのではないでしょうか。今川家滅亡の要因を氏真一人の力量に求めるのは、メジャーリーグのチームと戦って敗れた草野球チームが、「監督の采配が悪かったから負けた」と言い張るようなものです。
また、氏真の力量についても、かなりの誇張が見られます。
実際の彼は、武家に必須な教養である歌や蹴鞠に通じ、また剣術も当代一流の剣豪・塚原卜伝に学んでいました。そして義元の死後も、とてつもない重圧に耐えながら領内の立て直しに尽力し、結果として八年もの間、今川家を支えたのです。そこに、当主の務めを投げ出して蹴鞠に没頭する暗君の姿はありません。彼が泰平の時代に生まれていれば、大過なく家を保ち、もしかすると名君と讃えられていたかもしれません。
武人としては信玄や家康に敵わなかった氏真ですが、文人としては、確かな足跡を残しています。後水尾天皇が自ら選んだという『集外三十六歌仙』には、宗長や里村紹巴、細川幽斎、松永貞徳といった一流の歌人たちと並び、氏真も名を連ねました。氏真が遺した歌は、千六百とも千七百とも言われています。
そして何より彼の人柄を感じるのは、正室・早川殿の存在です。
若くして故郷を離れ他国に嫁いだ彼女は、駿府から掛川まで徒歩で逃れるという恐ろしい目に遭いながらも夫のもとを離れず、氏真が亡命先の北条家を離れる時も、実家を捨てて最後まで付き従っています。ただの政略結婚ではなく、互いに支え合う関係にあったのは間違いないでしょう。彼女にそうさせる人間的魅力が、氏真にはあったのです。
歴史的な評価はさておき、氏真は晩年、蹴鞠や連歌仲間と心ゆくまで交わり、妻や子、孫に囲まれた穏やかな日々を送ることができました。
どれほど偉大な業績を残し、名声を勝ち得ても、人としての幸福に恵まれなかった人物は枚挙に暇がありません。その点で、氏真はどうでしょう。時代や周囲の環境が悪かったために、親から受け継いだ家を潰してしまった。武士としてのプライドをかなぐり捨て、親の仇にも頭を下げた。けれど、 彼は最後まで、家族は捨てなかった。そして晩年には、一人の人間として最大限の幸福を掴むことができたのです。
その意味において、彼は信長や信玄にも負けない、圧倒的な勝ち組だったと言ってもいいのではないでしょうか。