2019.6.24
小田氏治―戦国最弱の愛されキャラ
戦国最強vs戦国最弱
そんな氏治の前に、救世主が現れました。「越後の龍」こと、上杉謙信です。
謙信(この頃はまだ長尾景虎を名乗っていましたが、ややこしいので謙信で統一)は、河越城の戦いで敗れた山内上杉憲政を保護して以来、一貫して反北条の立場を取っています。そして氏治の宿敵・結城氏は北条氏に半ば従属していました。つまり氏治と謙信は、敵の敵は味方の論理で結びついたのです。
謙信にとって氏治は、いてもいなくてもどっちでもいい存在ですが、氏治にとって謙信は、実に頼れる味方でした。氏治はバックに謙信がついていることを匂わせつつ周辺の諸大名と和睦し、奪われた領地を取り戻すことができたのです。謙信が北条氏の本城・小田原を攻めた際にも、氏治は軍を率いて参陣しました。
ところが、謙信の小田原攻めの翌年、氏治は何を思ったか、北条氏康の誘いに乗って上杉氏と離縁、北条氏に鞍替えしたばかりか、上杉方の大名・大掾貞国を攻めてこれを打ち破ります。
珍しく勝利の美酒に酔った氏治でしたが、好事魔多し、それから間もなく、再び滅亡の淵に立たされることとなりました。義に厚い謙信が氏治の背信に激怒、自ら率いて常陸へ出陣してきたのです。
謙信は「軍神」とも称される、言わずと知れた戦国最強武将です。ここに、最強vs最弱のドリームマッチが実現することとなりました。
神速の行軍で越後から一気に小田領へ攻め入った謙信は、およそ八千の軍勢で山王堂と呼ばれる丘陵に布陣します。ここで、周辺諸大名の参陣を待つつもりだったのでしょう。対する小田軍は、謙信の侵攻のあまりの速さに軍勢動員が間に合わず、わずか三千しか集めることができませんでした。
こうなっては、並の武将であれば、籠城して援軍を待つか、おとなしく降参するかの二択しか道は無いでしょう。
しかし氏治は、並の武将ではありません。戦国最弱の異名は、伊達ではないのです。あろうことか、氏治は三千の軍勢を率いて城を出ると、上杉軍の真正面に陣を布きました。
山王堂の麓には深田が広がっていて、丘陵を下りてくる上杉軍を迎え撃つには適していると言っていいでしょう。しかし問題は、小田軍の背後に流れる筑輪川でした。
川を背後に陣を布くのは「背水の陣」といって、軍学的には下策中の下策とされます。しかし中国の故事に、名将・韓信が敢えて背水の陣を布き、将兵に決死の覚悟をさせて勝利を得た、というものがあります。
彼がこの故事に倣ったのかどうかはわかりません。が、残念ながら氏治は、韓信のような名将ではありませんでした。上杉軍は「いっちょ、揉んでやれ」とばかりに丘陵を駆け下り、必死に抵抗する小田軍を粉砕してしまいます。
氏治は命からがら筑輪川を渡って小田城へ逃げ込みますが、上杉軍の猛攻を受け、夜陰に乗じて城を脱出、小田城はまたしても呆気なく陥落したのです(六年ぶり四度目)。
謙信は奪った小田城を佐竹軍に預けて越後へ撤退。その隙に、氏治は小田城を奪還します。しかしまたすぐに佐竹軍の逆襲を受けて小田城は陥落(三ヶ月ぶり五度目)。
翌年には佐竹氏当主の義昭が没した混乱に乗じて奪回。さらにその翌年、佐竹氏新当主・義重の攻撃を受けて陥落(六度目)。
この時はさすがに心が折れたのか、上杉謙信に降伏して小田城復帰を認めてもらっています。
落城は続くよどこまでも
これだけ敗けが込んでくると正直なところ、書き手としてもややげんなりしてきます。
しかし、そんなことでは弱小チームのファンは務まりません。先を続けましょう。
永禄十二年、佐竹義重は「鬼真壁」こと真壁氏幹に小田城攻略を命じます。これを受けた氏治は、懲りもせず城を出て野戦を挑みますが、佐竹軍の罠に嵌まって挟み撃ちに遭い惨敗、またしても小田城は陥落(七度目)。
これだけ敗ける氏治も困ったものですが、敗戦のたびに落とされる小田城もかなり問題があるように思えます。小田氏累代の居城とはいえ、守りに弱い平城で、規模もそれほど大きくはありません。
いっそ、もっと守りやすい城に本拠地を移せばよさそうなものですが、そこは鎌倉時代から続く名門、意地や外聞、あるいはしがらみなどもあって、簡単に引っ越すわけにはいかなかったのでしょう。もしかすると、氏治にとって何か大切な思い出の地だったのかもしれません。とにかく、彼の小田城に対するこだわりは尋常ならざるものがありました。
それから二年後の元亀二年、態勢を立て直した氏治は、小田城内に内通者を作るという、(彼にしては)智略を用いた策で城を奪還します。しかしその翌々年の元旦早々に佐竹軍の攻撃を受け、小田城はまたまた陥落(八度目)。大晦日恒例の連歌会に続く酒宴で酔い潰れていた氏治主従は、二日酔いの体を引きずって何とか小田城を脱出します。
この時の奪回戦は、氏治にしては見事なものでした。陥落からわずか三日後の一月四日、氏治は支城の木田余城で軍勢を整えるとすぐさま小田城に舞い戻り、佐竹軍を攻め立てたのです。これほど早く戻ってくるとは佐竹軍も思っていなかったのでしょう。一月十一日には佐竹軍が退却し、見事に奪還を果たしました。
その後も、佐竹義重は幾度となく小田領へ侵攻、領内の村々や小田城下に火を放ち、挑発を繰り返しました。氏治の小田城への執着は相当なものですが、義重のしつこさもなかなかです。何度小田城を奪ってもすぐに奪い返されるという展開に、自身の武名の低下を恐れたのかもしれません。
さて、しつこい挑発に堪忍袋の緒が切れた氏治は、三千の軍を率いて小田城を出陣、筑波山麓の手這坂に布陣します。狙いは、佐竹軍の前線基地・片野と柿岡の両城です。
迎撃に出てきたのは佐竹氏の客蒋で、智将として知られる太田資正。これに、「鬼真壁」こと真壁氏幹が援軍として加わっています。
何度も苦杯を嘗めさせられた真壁氏幹がいると知り、小田軍の士気は萎縮するどころか、リベンジのチャンスとばかりに大いに高まります。
合戦の火蓋が切られると、小田軍の前衛は押せ押せムードで坂を駆け下り、真壁隊に突撃していきました。そのまま一気に真壁隊を突き崩すかと思われたその時、真壁隊の一部が手薄になった氏治本陣に接近、鉄砲と矢を雨霰と撃ち掛けます。この一撃に本陣は大混乱、戦の流れは逆転します。氏治は態勢を立て直すこともできないまま敗走、小田城へ逃げ込もうとしました。
しかし、氏治が小田城へ近づいた時、城はすでに佐竹軍の手に落ちていました。先に小田城へ到着していた佐竹軍別働隊の将が、「お屋形様の御帰還である」と偽って城門を開けさせ、まんまと城を乗っ取ってしまっていたのです(手這坂の合戦。年次には諸説あります)。
かくして、小田城は九度目の落城を迎えました。そしてこれ以降、奪還することはかなわなかったのです。
最後の戦い
本拠地を失った氏治は藤沢・土浦の両城を新たな拠点に、佐竹氏と対立する北条氏の支援を受け、小田城奪回をしつこく試みます。しかし、何度か佐竹軍を打ち破ったことはあるものの、小田城を奪い返すところまではいかず、逆に多くの支城を落とされてしまいました。
もっとも、この程度で諦めるような氏治ではありません。手這坂の合戦から実に十六年が過ぎた天正十八年一月、満を持して小田城奪回の兵を挙げました。
さて、ここでいったん、視線を関東から中央に転じてみましょう。
織田信長は天正十年に本能寺で倒れ、明智光秀、柴田勝家らを破った豊臣秀吉が四国、九州まで平らげ、すでに天下の半ばを制しています。徳川家康は秀吉に膝を屈し、残る大大名は関東の北条、奥羽の伊達のみ。天正十八年、氏治が兵を挙げた時点で、秀吉による北条攻めは目前に迫っていました。
秀吉から、大名間の私戦を禁じる「惣無事令」も出されていたこの情勢で、すでに豊臣家に恭順している佐竹氏を攻めることの意味を、氏治はわかっていたのでしょうか?
恐らく、わかっていません。小田城を取り戻す。彼の頭にあるのは、その一事のみでした。氏治は戦下手なだけでなく、致命的な外交オンチでもあったのです。
六十歳になった氏治は、惣無事令をものともせず、迫りくる豊臣軍の足音に耳を傾けることもなく、最後のチャンスとばかりに小田城へ攻め寄せます。
ここに、氏治の(ある意味)輝かしい戦歴の最後を飾る、樋ノ口の戦いが幕を開けました。
小田城を護るのは、あの太田資正の子・梶原景国。小田軍は相変わらず士気だけは高く、緒戦で押しまくって城壁に取りつきます。
しかし、攻略まであと一歩というところで、城方に援軍が現れました。太田資正です。小田軍はこれを果敢に迎え撃ちますが、さすがは智将・太田資正。巧みな用兵で氏治を翻弄し、ついには敗走に追い込みます。
氏治の無念はいかばかりのものだったでしょう。そして翌二月、ついに豊臣軍が箱根を越え、関東へ雪崩れ込みます。北条氏の本拠・小田原は、二十万とも言われる大軍に囲まれてしまいました。五ヶ月に及ぶ包囲戦の後、小田原は開城、北条氏は滅亡します。
この状況にあって、氏治は北条に味方するでも、秀吉の下に馳せ参じるでもなく、事態を傍観しています。それほど、樋ノ口での敗戦にショックを受けていたのでしょう。
ですが、氏治の傷心を慮ってくれるほど、秀吉は甘い男ではありません。小田原に参陣しなかったこと、豊臣氏に恭順していた佐竹氏に対して戦を仕掛けたことを理由に、氏治の所領没収を決定します。
これに抗う気力も兵力もあるはずがなく、氏治は累代の所領を取り上げられ、ここに四百年続いた名門・小田氏は滅亡の時を迎えました。