2019.6.24
小田氏治―戦国最弱の愛されキャラ
戦国最弱の男
いきなり私事で恐縮ですが、僕は名古屋生まれ名古屋育ちにもかかわらず、横浜DeNAベイスターズのファンです。
この原稿を書いている時点で、ベイスターズはぶっちぎりの最下位。しかしどれほど負け続けても、ファンをやめようと思ったことはありません。
ベイスターズに限らず、弱小チームがごく稀に大勝した時の快感には、一種の中毒性のようなものがあります。たぶん僕は、死ぬまでベイスターズを愛し、応援し続けることでしょう。
そんな僕がベイスターズと同じくらい好きなのが、戦下手で有名な弱小戦国大名・小田氏治さんです。
最近では知名度もずいぶん上がり、NHKの歴史番組で取り上げられたりもしていますが、まだまだマイナーの域は出ません。
そこで今回は、「戦国最弱」の異名を持つ彼が、いかにして苛酷な戦国時代を生き抜いたかを考えてみたいと思います。
デビュー戦
藤原摂関家の流れを汲む小田氏は、古くから常陸国小田城(現在の茨城県つくば市)を中心に勢力を張っていたものの、戦国時代に入ると、一族間の内紛や外部からの侵攻により、次第に弱体化していました。
小田氏第十五代当主となる氏治が生まれたのは、享禄四年。「メジャーな方のオダ」である織田信長よりも三歳年長です(天文三年生まれという説もあり)。
彼の父で十四代当主の政治は、「小田氏中興の祖」と呼ばれる名将で、氏治が元服を迎える頃には、縮小した小田氏の勢力をある程度まで回復していました。
そして十五歳の氏治は天文十四年、父の下で初陣に臨みます。
当時の関東は、幕府の要職である関東管領を代々務める山内・扇谷の両上杉氏と、相模の新興勢力である北条氏が覇権をかけて争っていました。そしてこの年、両上杉氏はかつて関東を治めていた古河公方・足利晴氏を大将に担ぎ、北条方の武蔵国河越城攻めを決定します。
両上杉氏は関東の諸大名に参戦を呼びかけ、政治もこれに応じました。関東の主な大名の多くが参加した両上杉連合軍は、実に総勢八万に達したといいます。対する北条氏当主・氏康は、敵対する今川義元と戦うため駿河へ出陣中で、河越に援軍を向けることも難しい状況です。
どう考えても、負ける戦ではなさそうです。政治が息子の初陣にこの戦を選んだのも、味方が確実に勝つと踏んだからでしょう。
しかし、氏康は河越城が囲まれたことを知ると、甲斐の武田晴信(後の信玄)の斡旋を受けて今川義元と和睦し、河越救援に向かいました。一方、河越城を包囲した連合軍ですが、城兵の抵抗を受けて戦況は膠着。連合軍の将兵には厭戦気分が広がります。
そこへ突如として氏康本隊八千が現れ、連合軍に襲いかかりました。これを見た河越城の城兵も、城門を開いて打って出ます。激戦の中、扇谷上杉家の当主・朝定が戦死。山内上杉家当主の憲政も、多くの名のある将と馬廻衆(親衛隊)三千余を失い敗走。八万の連合軍はたちまち壊滅してしまいました。桶狭間の戦い、厳島の戦いと並び戦国三大奇襲戦に数えられる、河越城の戦いです。
この戦いの状況を伝えるのは、多くが後世に書かれた軍記物で、実際のところ詳しい経過はわかりません。ただ、かなりの激戦が展開され、寡兵の北条軍が両上杉連合軍に大勝したことだけは確かです。そしてこれ以後、両上杉氏は没落、関東の覇権は北条氏が握ることとなりました。
「楽勝だって言ったじゃないか!」
敗走の混乱の中で、氏治は叫んだことでしょう。そして学びます。寡兵でも戦い方次第では、十倍の相手に勝利を収めることができるのだと。
ともあれ、政治・氏治父子は命からがら常陸へ逃げ帰り、氏治のほろ苦いデビュー戦は幕を下ろします。
しかし、彼の苦難に満ちた連敗人生はまだ、始まったばかりでした。
敗戦、そして敗戦
河越城の戦いから三年後、父・政治が没し、十八歳の氏治は小田氏の家督を相続しました。言うなれば、一介の新人選手がいきなり「チーム小田」の監督に就任したようなものです。
家督を継いで間もなく、あまりに若く経験も浅い監督に不安を覚えたのか、配下の真壁城主・真壁久幹が隣国下総の大名・結城政勝に寝返るという事件が起きます。
しかし、河越城の敗戦と政治の死で動揺する小田氏は、すぐには動くことができません。加えて、結城政勝は北条氏康に接近し、迂闊に戦を仕掛けることはできなくなってしまいました。
そして時は流れ、弘治二年四月、結城・北条連合軍が小田領へ侵攻、小田方の支城・海老ヶ島城を攻撃します。この報せを受けた氏治は、自ら援軍を率い海老ヶ島に向かうことを決定、小田城を出陣しました。氏治は、かつて河越城で北条氏康が行ったように、海老ヶ島城を囲む結城軍の背後を衝くことを狙ったのでしょう。
しかし連合軍は、氏治の策を読んでいたかのように、海老ヶ島の手前で小田軍を待ち構えていました。
兵力で圧倒的に有利な連合軍は、小田軍がまごまごしている間に一気呵成に攻めかかります。瞬く間に三百人を失った小田軍は敗走しますが、連合軍の追撃は迅速で、氏治は小田城へ入ることさえできず、やむなく支城の土浦城へ逃げ込みました。かくして、小田城は当主不在の間に初の落城を経験します。
「いやいや、ちょっと待って。心の準備ができてない!」
結城政勝は、想定外の戦果に慌てました。
小田城は奪ったものの、戦が終わって北条の援軍が相模に帰ると、自力で小田城を守り抜く自信が無くなったのかもしれません。それからわずか四ヶ月後、氏治は小田城への帰還を果たし、海老ヶ島城も奪回します。しかしどちらかというと、結城軍に小田城を死守する意思が無かったというのが実情のようです。
小田城へ帰った喜びも束の間、弘治三年二月、今度は下妻城主の多賀谷政経が海老ヶ島城へ攻め込んできました。
氏治は前回の反省を踏まえて一計を案じ、敵の本拠地・下妻を攻めます。作戦通りに進めば、多賀谷政経は海老ヶ島城どころではなくなり、撤退を余儀なくされるでしょう。旨くいけば海老ヶ島を救うだけでなく、下妻城まで手に入る。獲らぬ狸の皮算用をしながら、氏治は下妻に向かいました。
ところが、黒子に陣を張った小田軍へ、まったく予期せぬ敵が襲いかかりました。古くから北常陸に勢力を張る名門・佐竹氏の軍勢です。
不意を衝かれた小田軍はあえなく崩壊、敗走します。
「聞いてないぞ!」
佐竹軍の猛攻を受けながら、氏治は叫んだことでしょう。
しかし、そもそも多賀谷政経が小田領へ攻め入ったのは、佐竹氏と共謀してのものだったのです。佐竹氏にしてみれば、鴨がネギを背負ってきてくれたようなもので、小田軍をこてんぱんに打ち破りました。
小田城は追撃してきた佐竹軍によって陥落(八ヶ月ぶり二度目)。再び土浦城へ逃げ込む破目になった氏治ですが、この時は家臣の活躍によって、間もなく小田城の奪回に成功しています。
それから二年後の永禄二年、にっくき結城政勝が没し、養子の晴朝が跡を継ぎました。氏治はこの混乱につけ込み結城氏の本拠地・下総結城城を攻めます。
本城を奪われるという屈辱を味わわされた小田軍が逆に結城氏の本城を奪う、千載一遇のチャンスでした。小田軍はわずかな城兵が籠もる結城城を勢いに任せて攻め立てます。
しかし落城寸前と思われたその時、敵の援軍が駆けつけてきました。「鬼真壁」の異名を取る、真壁氏幹。十一年前に氏治を見限り結城氏に鞍替えした、あの真壁久幹の子です。
またしても不意を衝かれた小田軍はあえなく崩壊、敗走します。今度は小田城の失陥こそ免れたものの、逆襲に転じた結城軍に支城の北条城を奪われてしまいました。さらには便乗してきた佐竹・多賀谷の軍には海老ヶ島城を落とされ、翌年には小田城を奪われます(一年ぶり三度目)。そのさらに翌年に奪い返しはしたものの、小田氏の勢力はすでにボロ雑巾のように磨り減っていました。そして周囲では、虎狼のような戦国大名たちが、虎視眈々と小田領を狙っているのです。結城氏打倒のチャンスから急転直下、小田氏は滅亡の淵に立たされてしまいました。