よみタイ

できないことだらけの毎日で【第7回】ままならない体と心

うごかないものはわたしと鳥影で焼き付けられたやうにひとり

 ままならない体を抱えてわたしは考える。一日中横になっているから、シーツはなまぬるくて、枕元には本が散らばっている。その横にはスマートフォンが投げ出されている。お昼になったけれど、立って何か食べるものを用意することすらできないと思ってしまう。ヨーグルトを冷蔵庫から取り出して、ガラス器に取り分けることを想像するだけで疲れてしまう。そんなのおかしいと自分でも思う。思うけれど、どっぷりと疲労の沼に潜り込んでしまって、どうやればそこから抜け出せるのかがわからない。早く治るといいのにと思いながら、以前のわたしと今のわたしのどちらがほんとうのわたしなのかわからなくなる。
 わたしの意のままに動くことができる体とは、わたしの精神を容れた器だったのか。エラーが少なく、機能的なモノとして、わたしは自分の体を考えていたように思って愕然とする。でもこれはわたしだけだろうか。わたしの体を、効率的に動く「モノ」として扱っていたのはわたしも含めた社会ではないかと思い至る。
 子どもの頃から、わたしはなるべくたくさんのことを「できる」ように社会から要請されてきた。そしてそれらは「やればできる」と言われてきた。なるほど、わたしの場合、勉強はやればできた。勉強ができれば、いい学校と言われているところへ行けた。いい学校へ行くと、どうやらいろんな仕事ができるらしい。どんなにやってもできないことがあるとか、可能性は有限だとか、できることばかりが大切ではないとは誰も言わなかった。大人は可能性のある話をよくしたけれど、それは何ができるかの話だった。社会はできることで満ちていて、それに疑いを持つことなどなかった。

青りんごひとくち喉をくだりゆく次第にわれの温度となりて

 もう午後になろうとしているのに、しわくちゃのぬるいシーツに体を横たえながらわたしはこんなことを思い出している。ままならない体を持て余しながら。トイレに行きたいけれど、ひどくめんどうくさい。体を起こすと、くらくらして、頬の血の気が引いていく感じがする。わたしは壁に手をついて、やっとのことで起き上がる。体が砂袋みたいに重い。
 わたしの体がわたしのもののように思えない。引きずってしまうほどずっしり重たいかばんを持たされているような心地で、わたしはわたしの体と過ごしている。過ごしているという言い方はしっくりこない。わたしはわたしの体と、世界から置き去りにされたような気がしている。誰かの「やったこと」で満ちた世界の隅っこで、「できないこと」しか持っていない体とわたしは居場所をなくしているように感じている。
 ようやく立ち上がって、わたしはトイレに行く。その後、台所でコップに水を汲んで、なまぬるい水をひと息に飲む。お腹が空いたのか、空いたと思っているだけなのかわからなくて、それでも冷蔵庫からりんごを一つ取り出して、流しの前に立ったまま、皮も剝かずに歯を立ててかじる。りんごの甘みと微かな酸味が口の中に広がって、唇の端から汁が滴る。わたしは何のために水を飲み、食べ物を食べているのだろうか。今日何もできなかったわたしは、この世界のどこに居場所があるだろうか。
 家族も友人も、病院の医師や看護師さんもみんな「無理をしなくていい。できることだけやって休んでいればいい」と言う。恵まれていると思う。ありがたいと思う。「人は何をやったかではない。存在しているだけで尊いのだ」どこかで見かけたようなこんな言葉を思い出す。わたしもそう思う。でも、とふたたびベッドに横になってわたしは考える。この言葉は、わたしがこれまで社会から受け取ってきたメッセージと全く違うのではないか。なるべくたくさんのことをやりなさい、そのために一生懸命努力しなさい、やったことであなたの価値が決まりますよ。そう耳元で囁き続けられてきたのに、そうできなくなった途端、そのステージから下ろされて、いいんだ、あなたはいるだけで価値があるのだと急に言われても、ちょっとにわかには信じられない。
「できること」と「できないこと」の間でわたしは揺れ動く。わたしはやっぱり「できる」わたしでありたいのだ。「できない」わたしは受け入れ難いのだ。幸い先週行ったかかりつけの病院で検査結果が出て、それを基に新しい薬を処方してもらった。この薬がびっくりするほど効いて、数日であんなに悩んだめまいもだるさもよくなっていった。もやがかかっていたような体は澄んできて、水の中をやっと歩いているようだったのに、追い風に支えられて走っているような気分だ。わたしの体は、ふたたびわたしの精神を容れててきぱき動けるようになった。やりたいこと、行きたいところ、体はわたしをすいすい運んでくれる。
 わたしはたちまちに「できる」わたしに戻った。とても快適で気分がよい。これがほんとうのわたしだと思いながら、頭の片隅に微かな違和感がある。「できない」わたしをなかったことにしてもいいのだろうか? 「できない」わたしは、ほんとうのわたしではなかったのだろうか。わたしの体って、効率的に動くただのモノなのだろうか。

てのひらはからだを撫でておりてゆく あかるい場所に生まれておいで

 まだ明るい時刻に、お風呂にお湯を溜めて入る。石鹸をやさしく泡立ててみる。やわらかい泡を両手ですくって、体をゆっくり洗う。手の先から腕、脇、胸、背中、ふともも、そして足先。足の指を一本一本丁寧に洗う。まるで他人の体を洗っているようだ、と思う。子どもが生まれたばかりの頃、おそるおそる入れていたお風呂のことを思い出す。そうだ、わたしは自分の体をこんなふうに丁寧に洗うことがこれまでなかった。最小限のメンテナンスでどこまでも思い通りに動く体を、わたしは求めてしまっていたのかもしれない。
 髪も体も顔も時間をかけて洗い、湯船に入って体を伸ばす。お湯の中の自分の体は、いつもと少し違って見えて、他人のもののように見える。わたしはこの体と生きてきて、これからも生きていくんだなと当たり前のようなことを改めて思う。もしかしてわたしは長いことこの体を置き去りにしてきたのではないだろうか。
 お風呂から上がって、バスタオルで体を頭から順に拭いてゆく。光の中で白く浮かび上がるわたしの体は、確かなようにも、頼りないようにも見える。「できる」わたしと、「できない」わたし。人は年齢とともに自然と「できない」ことが増えていくはずだ。そして最後には、生きることそのものも「できなくなる」。一つ、また一つ増えていくはずの「できない」を抱えながら、わたしはこの「できる」ことで満ちた世界でこの体と楽しくやっていけるだろうか。
 コップに水を注いで、ひと息に飲む。水は体をゆっくり下っていく。体は次第にあかるむようだ。「できる」ことも、「できない」こともある体とわたし。そのときどきに揺らぎながら、わたしにできることはこの体を生きることだ。

*次回更新は、10月20日(月)です。

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新刊紹介

齋藤美衣

1976年広島県生まれ。急性骨髄性白血病で入院中の14歳の時に読んだ、俵万智の『サラダ記念日』がきっかけとなり短歌を作り始める。著書に、『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(2024年/医学書院)、第一歌集『世界を信じる』(2024年/典々堂)がある。

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