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知り合って27年の夫のことを何も知らない【第6回 】夫婦の出会い直し

歌人の齋藤美衣さんの著作『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』は、自身が内包する「傷」を掘り下げ、その筆力もあいまって話題となりました。続けて刊行された歌集『世界を信じる』も、暮らしの中の一瞬や移ろいを清澄な言葉でとらえ好評です。
日々を過ごすなか、また、過ぎた時間のなかに、惑い途方にくれること、悔恨、屈託、解放されたこと…暮らしの断片と陰影を、歌に込め文に紡ぐ短歌エッセイです。

バナーイラスト/鈴木千佳子 本文写真/著者提供

まだ知らぬきみの原野を照らしつつ灯台躑躅(どうだんつつじ)は食卓にあり

 いつもより少し早い時間に仕事から帰ってきた夫が部屋に入るなり、「あ、ドウダンツツジだ。買ったの?」と尋ねた。わたしは驚きながら「うん、今日お花屋さんで買ったの」と答えた。
 食卓には大体いつも切り花を飾っている。近所の気に入っているお花屋さんでいつも季節の花を選んで飾っているのだけれど、夫も含めた家族の誰もこれまで花に興味を示したことがなかった。そんな夫が、食卓に飾った植物のことを帰ってくるなり口にしたことにびっくりしたのだ。さらに、チューリップやひまわりなどの誰でも知っている花ではなくて、ドウダンツツジの名前を知っていたことも意外だった。夫は続けて「ドウダンツツジっていいよね。前から好きなんだ」と言う。わたしはますます驚いてしまった。
 ドウダンツツジは初夏の頃からお花屋さんに並び始めて、夏の間きれいな緑を楽しませてくれる。ツツジと言われるとよく道路の植え込みになっているあれを想像してしまうけれど、普通のツツジよりすんなり伸びた枝と、青々した涼しげな緑の葉を楽しむ植物だ。たまに花がついていることがあって、それがとても小さい白い壺型であいらしいところも気に入っている。ドウダンツツジを漢字で書くと、「灯台躑躅」であることも好きな理由の一つだ。
 そんなふうにわたしがドウダンツツジを選んだ理由は色々あったのだけれど、あんなに植物に無関心に見えていた夫が、これまでの人生のどこでドウダンツツジに出会ったのかわたしは全然知らなくて、たったこれだけのことなのに、「わたしはこの人のことを知らないのだな」と軽い衝撃を受けた。
 夫と出会ったのは、大学に入学してすぐの頃だった。入ったサークル(「医療問題研究サークル」という今思えば硬くてパッとしないサークルだった)の一つ上の学年に彼がいた。学部を超えたメンバーがいたサークルの中で、同じキャンパスのメンバーは彼だけだったので、話をする機会が多かった。いつの間にかわたしたちは互いに惹かれていた。出会って一年半ほどで学生結婚し、それから27年もの月日が経った。気づけば出会う前より一緒にいる時間のほうが長くなった。

歳月は葉擦れのやうにささめきて身体の奥に積もりゆきたり

 ポテトサラダが好きなこと(ただしべちゃっとしたのはだめ)、麺類ならパスタでもお蕎麦でもフォーでもなんでも喜ぶこと、片付けが苦手でとりあえず溜め込んでしまうこと、おしゃれで毎朝のようにわたしにこの洋服にどっちの靴のほうが合う?と尋ねること、寝るのが好きでよく昼寝をすること。こんなことをいくつもいくつも知っていって、知り合っていって、わたしは夫が帰ってきたときのドアの開け方で機嫌がだいたいわかるようになっていったし、彼はわたしがちょっとささくれた心で料理をしていると、気づいて声をかけてくれる。「空気のような」という言い方があるけれど、一緒にいることがなめらかで淀みなく流れる感じがする。だから日常生活の表面では、わたしは彼のことをとてもよく知っているという気がしていたのだ。
 それなのに、ドウダンツツジ。大げさなようだけれど、「わたしはこの人のことをまだ知らなかった」と思った。変な言い方だけれど、わたしはドウダンツツジが好きな夫と初めて出会ったような気持ちがした。思えばわたしだってわざわざ口にしないことはたくさんある。知り合ってはじめの頃は言葉に出して伝え合うことがたくさんあった。それまで全く違うところで暮らしてきた二人が一緒にいるためには、言葉がどうしたって必要だった。出会う前のこと、一緒にいない時間のこと、考えているものごと、好きなもの、苦手なもの。そんなことをいつだってしゃべっていたように思う。そのときの二人の関係はとてもシンプルで、ただ恋人なのだった。

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新刊紹介

齋藤美衣

1976年広島県生まれ。急性骨髄性白血病で入院中の14歳の時に読んだ、俵万智の『サラダ記念日』がきっかけとなり短歌を作り始める。著書に、『庭に埋めたものは掘り起こさなければならない』(2024年/医学書院)、第一歌集『世界を信じる』(2024年/典々堂)がある。

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