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不安や恐れには科学的な「価値」がある? ソニーコンピュータサイエンス研究所・小泉愛氏に聞く

社会を強靭にする多様性

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いまお話したのは個体レベルの話ですが、社会にとっても似たようなことが言えそうです。

感情や特性には個人差があります。不安を感じやすい人もいれば、いつも楽天的な人もいるでしょう。仮に社会に不安が広がったとしても、皆が一様に不安になるのではなく、個人によって差があるということです。

なぜ私たち人間にはこうした個人差があるのでしょうか。それは、多様な特性が集団の適応力や回復力を高めるなど、集団にとっての強靭さにつながっているからかもしれません。

平均から大きく外れた性格特性の意味は、現代社会の平和な日常では見えにくい場合もあります。むしろ不利さと捉えられることも多いでしょう。しかし社会の環境が激変すると、それまで「有利」とされてきた特性が「不利」になり、逆に「不利」だと思われていた特性が、その集団を助けることがあるかもしれません。

「強迫性障害」という精神疾患があります。これは、不安やこだわりが強く現れ、たとえば戸締りを何度も繰り返し確認したり、不潔への恐れから手洗いが過剰になるなどの症状が現れるもので、臨床では治療の対象とされることが一般的です。

しかし私が行ったパイロット研究では、コロナ禍という特殊な環境において、強迫性傾向を持つ方々の行動特性が、感染症の拡大抑制に寄与する可能性があることが示唆されました。これはあくまで予備的な結果であり、さらに慎重な検証が必要ですが、平時は「不利」だと思いこまれていた特性が、時代や場所の変化によって、重要な意味を持つかもしれません。

強迫性障害だけではありません。現代の社会環境で「有利とは言えない」と見なされている特性が、状況の変化によって重要な役割を果たすこともあり得ます。

「よい」を疑う

ただし、ネガティブだと価値判断されやすい感情や特性について「今は不利だけど、状況次第では役立つかもしれない」と考えるだけでは捉えきれない面もあると考えています。今、この状況でも、そういった感情や特性の意味を問うべきではないでしょうか。

たとえば、自閉スペクトラム症を持つ人々が、プログラミングやゲーム開発などに高い能力を発揮することに着目して就職を支援する起業が、海外では広まりつつあります。現代の社会環境では、どうしても巧みに言葉を操り、コミュニケーション能力が高いとされる人が重宝されがちですが、それとは異なる能力を持つ人々の力が必要になる場面もあるはずです。

感情を理解する難しさ

「不安」という感情を、和らげようとする手法は様々ですが、脳の構造を踏まえると、簡単ではありません。その理由の一つは、人間の脳では、感情をつかさどっている原始的な部位と、論理や言語を司っている高次の部位とでは回路が異なるからかもしれません。「理屈はわかっていても、気持ちがついてこない」という経験があるのは、そうした脳内の構造的な違いに由来する可能性があります。

それに、繰り返しになりますが、感情は複雑です。一口に「不安」と言っても、その種類はたくさんあります。また、自分の感情を正確にとらえることも難しいし、感情や特性への価値づけには歴史や文化の影響も強いのです。

不安などのネガティブな感情に苦しんでいる人がいるのも事実でしょう。私は医学的な専門家ではありませんが、一つだけお伝えしておきたいのは、ネガティブな感情にも何らかの機能や意味がある可能性がある、ということです。

それは、身体が、侵入してきた細菌やウイルスと戦うために出す熱に似ているかもしれません。たしかに熱は苦しいし不快だけれど、それは細菌やウイルスに抵抗するという意味がある。そのことを理解すれば、発熱の苦しさは変わらなくても、少し気が楽になる場合もあるかもしれません。

同じように、不安であることは確かに心地よくはないけれど、それは「来たる危険から身を守るための心理的な反応」であると考えると、不安そのものが消えなくても「不安を抱くこと自体への不安」は少し軽くなるかもしれませんね。

 次回連載第8回は5/7(水)公開予定です。

小泉愛(こいずみ・あい)プロフィール

ニューヨーク州立大学 卒業(心理学・映画学ダブルメジャー)、東京大学大学院 人文社会系研究科で博士号(心理)取得。コロンビア大学心理学部、情報通信研究機構 脳情報通信融合研究センター 研究員を経て、2019年1月よりソニーコンピュータサイエンス研究所 アソシエートリサーチャー。現在、国際電気通信基礎技術研究所 連携研究員、科学技術振興機構 さきがけ研究員。これまでに、日本学術振興会 特別研究員・海外特別研究員・卓越研究員、NTTコミュニケーション科学基礎研究所、日米科学技術協力事業「日米脳」共同研究員を歴任。

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新刊紹介

佐藤喬

作家・フリーの編集者。著書に『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。構成作は『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極壽一/鈴木俊貴、集英社)、『AIに意識は生まれるか』(金井良太、イースト・プレス)ほか。

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