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「意識 = 情報」なのか? 〈意識の統合情報理論〉を東京大学准教授・大泉匡史が解説

数理の奥底にある哲学

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 IITは、意識の本質を、情報と考えて、数理的に記述しようとする理論です。
 研究者も含め誤解があるので先に言っておきますが、IITは意識の「量」を測るだけの理論ではありません。たしかに、覚醒しているとか寝ているといった意識レベルに対応した「統合情報量」(Φ:ファイ)という概念が出てきますが、それだけではなく、意識の質を記述することも目標にしています。意識の質とは、クオリアと呼ばれます。

 トノーニがはじめてIITを提唱したのは2004年ですが、IITには当初から大きな問題がありました。理論を検証しようとすると、計算量が膨大になってしまうことです。仮に、生物の脳のようにニューロンによって構成されるシステムについてΦを計算しようとすると、計算できるニューロンの数はせいぜい10個くらいが限界です。人間の脳には数100億個近いニューロンがあるので、とても計算などできません。
 しかしその後、近似的に計算する手法を提案する論文が出たこともあり、数理的なトレーニングを積んだ研究者が求められていたのが2010年ごろのIITをめぐる状況でした。私は大学院自体に、情報理論を用いた神経科学の研究をしていましたので、IITが提案する新しい数理に大きな興味を持ちました。

 私は土谷さんの誘いを快諾して、一緒にトノーニのところに向かいました。最初の訪問では一週間くらい滞在したのですが、そこで毎日、朝から晩までトノーニからIITや意識の話を聞きました。その滞在を通して、私は自分がIITの本質、最も面白い部分をまったく理解していなかったことと、トノーニの洞察の奥深さに気付くことになります。
 私がIITの研究に参加しようと思ったきっかけは、IITが数学的に面白そうに見えたからです。でも、私はその根底にある哲学的な洞察をわかっていなかったんですね。
 
 もっとも、無理もなかったとも思います。今もIITを誤解している研究者はとても多いのですが、そういう人はえてして、IITの本質的な部分を見落としているように思います。でも、数学的な詳細は次のステップとして、まずはIITが何を出発点とし、何を目指した理論なのかを正しく理解することが重要なのです。

主観世界から出発するIIT

 科学理論としてのIITのもっとも重要な点は、「主観体験そのものから出発している」点だと考えます。
 科学という営みは客観的な観察からはじまります。リンゴが木から落ちたとか、太陽が水平線に沈んだとか、客観的な事実を積み重ねていく。脳研究も同じで、被験者の行動とか、fMRIで見た脳の画像とか、客観的なデータを基に考察を進めます。客観的なデータを積み重ねることで、それらを統一的に説明し、かつ未知の現象を予測できる理論が登場することがあります。
 しかし、意識の理論を作ろうと思ったときに「客観的なデータ」とは何になるでしょうか? 行動や脳活動は、意識に関係するものではあるけれど、意識そのものではありません。そこでIITは、理論の出発点を行動や脳活動に置くのではなく、主観世界からスタートすることにしました。
 具体的には、自分の意識を自分で観察し、意識の本誌的な性質を抽出し、それらを「公理」として設定するのが出発点です。公理自体は理論の出発点、前提なので、科学的に説明しなくて良いものです。IITは公理を出発点とし、公理から推測される予測を数理の言葉で書き下し、意識を説明しようとします。

 ではこれから、IITの公理を説明しましょう。バージョンによって少しの違いはありますが、ここでは私がトノーニと共に構築したIITのバージョン3に基づいて解説します。

IITの公理

意識の本質的な性質
意識の本質的な性質

IITの公理① 意識には情報がある
 情報理論では「情報」を「たくさんある可能性を減少させるものごと」と定義します。たとえば「明日は雨になる」という情報は、明日が張れたり、曇りになったりする可能性をなくしますよね。
 同様に、「今、赤いリンゴを見ている」という意識は「黄色いバナナが見えている」「緑のキュウリを見ている」といった、無数のあり得る意識を排除するという意味で、情報があります。
あまりにも当たり前のことだと思われるかもしれませんが、IITの出発点となる「公理」とはこのレベルの「当たり前と思われる本質的な性質」のことを指します。

IITの公理② 意識には構造がある
 意識には構造があります。ある人の顔という視覚体験には、目が二つ並んでいるとか、その下に鼻があり、さらに下に口があるといった空間的な構造があります。 視覚に限らず、意識にはこういった構造があると考えられます。

IITの公理③ 意識は統合されている
 公理①②を合わせて、意識は構造を持つ情報と言えますが、その情報が統合されているのがもう一つの意識の特徴です。
 というと難解そうですが、あまり難しく考えなくて大丈夫です。リンゴを見ているとき、表面の艶、赤さ、丸いフォルム、香りなどの要素は統合して感じられています。もちろんバラバラに感じ取ることも可能ですが、それは全体としてのリンゴとは別の意識ですよね。
「情報の統合」という概念を理解する例として、文字を考えてみましょう。私の苗字は「大泉」ですが、それを「大」「白」「水」に分けたら、それは「大泉」ではなく、あくまで「大」+「白」+「水」であって、「大泉」があらわす意味とは異なりますよね。統合されていないからです。
 つまり、「大泉」を「大」+「白」+「水」に分割すると何らかの情報が失われる。このとき失われている情報量を、統合情報量と呼びます。つまり、意識は情報があるだけでなく、統合情報量があると言えます。

IITの公理④ 意識は排他的である
 これはIITの公理の中でもっとも理解するのが難しく、当たり前の事実とは必ずしも言えないものです。この公理には異論もあるのですが、例によってなるべく単純に考えてみましょう。
 今、この文章を読んでいるモニターから目を話し、目の前の光景を眺めてみてください。部屋なり電車内なり、何かが見えていると思います。
 さてこのとき、「理屈としては」この光景の一部、例えば右視野だけの意識と左視野だけの意識が同時に併存しても不思議ではありません。あるいは、見ている光景の視覚体験とは別に、「色がない白黒の光景」といった意識経験が、別に、かつ同時に存在していてもよさそうです。

 しかし、そういうことは起こらず、なぜか、意識は今経験している一つだけが存在しているように思えます。
 それは裏を返すと、右視野だけの意識とか、色がない白黒の意識とか、理屈としてはあり得る様々な意識が排除されているということです。それを指して意識は排他的だと言っているのです。
 落ち着いて考えてみると不思議な話ですが、これも意識の本質的な性質の一つであるとIITは考えます。

主観的な公理を客観的に満たすシステムとは?

 さて、以上がIITの基礎である公理です。みなさんも自分の意識を主観的に振り返ると、これらの公理を満たしていることに納得できるのではないでしょうか。
 そしてここからがIITのユニークなところです。IITでは、これらの主観的な公理を基に、公理を満たす客観的な物理システムについて数理的に考察するのです。つまり主観→客観とコマを進めるんですね。
 これは既存の意識研究のやり方とは逆なんです。今までは「客観的な物理系(脳、AIなど)がこうなっているから、そこには主観的な意識が宿る/宿らない」という具合に、客観→主観と話を進めるのが一般的でした。IITはその逆のアプローチをするんです。

 簡単な例を挙げてみます。
 公理①「意識は情報である」を例にとるなら、この公理を基に「死んだニューロンの集合には意識は宿らない」という仮説を立てられます。理由は単純で、入力に対して何も変化しない死んでいるニューロンは情報を生まないからです。これは当たり前の例に思えるかもしれませんが、それとは別に「どんな入力に対しても常に同じ活動をし続けるニューロンの集合にも意識は宿らない」という仮説も立てられます。この場合も、活動はしていますが、情報を生まないという観点からは死んだニューロンと同等なのです。
 同じように公理③「意識は統合されている」を基に物理的システムについて考えるなら、脳のニューロンと同じ数だけ豆電球を並べても、そこには意識は宿らないと予測できます。ある電球が光ることと別の電球が光ることに因果関係がない以上、分割しても失われる情報がないからですね。
 そして、分割したときに失われる情報の量を統合情報量と呼びます。意識が生じているシステムでは、必ず統合情報量があるはずだというのがIITの仮説です。

 このように、主観的な公理を基にして、数学の言葉で書かれた仮説を提唱し、客観的なシステムについて考察するのがIITです。数学的に記述するので一見難しそうに見えますが、まずは出発点にある素朴な公理の部分を理解することが大事ですね。そこを飛ばして数理ばかり見てしまうと、根本的にIITを誤解してしまうからです。

デジタルカメラはフォトダイオードの間の結合を切断しても情報の損失がない(=統合情報量0)。対して、脳は神経細胞間の結合を切断すると情報の損失が大きい(=統合情報量が高い)。
デジタルカメラはフォトダイオードの間の結合を切断しても情報の損失がない(=統合情報量0)。対して、脳は神経細胞間の結合を切断すると情報の損失が大きい(=統合情報量が高い)。

意識の量と質を扱うIIT

 さて、このIITを一つの作業仮説として、私は意識を研究しているのですが、「意識」という言葉は大きく二つの側面にわけられます。
 一つは、寝ているときは意識レベルが低く、覚醒してると高いといった、量的な側面。これは情報の統合の度合いを表す統合情報量Φと関係しているだろう、というのがIITの主張です。
 それを間接的に確かめる試みとしては、たとえばTMS(Transcranial Magnetic Stimulation:経頭蓋磁気刺激法)を利用したものがあります。TMSは磁気で脳の特定の場所を刺激する手法なのですが、刺激への反応が脳の他の場所に伝播する度合いと情報の統合レベルは関係があるのではないかと言われています。実際、寝ている人の脳を刺激すると、覚醒時と比較して、伝播しないことが知られています。

 もう一つ、IITがターゲットにしているのが意識の質、クオリアです。
 よくIITについて「Φという1次元的な量で意識を定量化しているだけだから、豊かな質(クオリア)を説明することなんてできないだろう」と誤解している人を見かけるのですが、それはまったく違って、IITは意識の質も扱った理論です。

 簡単に説明しますと、IITはクオリアを、システムの活動パターンそのものではなく、「活動パターンの因果関係の確率分布」が決めるものだと考えています。
 脳を例にとると、ある瞬間の脳でニューロン群がAというパターンで発火したとします。するとその発火パターンから、「過去にはこういう発火パターンだった可能性が高い/低い」「未来ではこういう発火パターンになる可能性が高い/低い」ということが確率的に記述できます。それが因果関係の確率分布であり、クオリアに相当するるものです。

クオリア構造でIITを検証する

 すごく長くなってしまいましたが(笑)、最後に、前回、土谷さんが解説したクオリア構造との関係に触れておきます。
 さきほど述べたように意識には「量」「質」の二面があり、IITは両方を扱かった理論です。しかしIITが科学的な理論として成熟するためには、まだまだたくさんの実験、意識の量に関しても質に関しても検証しなければいけません。
 さて、実験では客観的に定量化できる指標が必要です。意識レベルについては、大雑把には睡眠時は意識レベルが低く、眠たい状態では覚醒状態の中間などの指標があります。だから、意識レベルは比較的研究しやすい。
 一方、意識の質であるクオリアについては外から定量化する手法があまりなかったのです。例えば、私が感じている「赤」と他の人が感じている「赤」が同じかどうかといった問題は、どのように定量的に調べれば良いのかも分かりませんでした。

 クオリア構造は、それ単体では定量化することが不可能に感じられるクオリアを、それ以外のクオリアとの関係から定量化する試みであり、様々なクオリアの間の関係性の構造をクオリア構造と呼んでいます。私はクオリア構造に基づいて、クオリアを定量化することで、IITのような意識の数理的な理論の検証が可能になるのではないかと考えています。
 道のりは長いですが、IITが予測するクオリアの構造と、実験的に観察したクオリアの構造が一致すれば、理論の検証の一つになると考えています。そのような理論の検証を十分に積み重ねることができれば、人間の意識と脳活動との関係がより深く理解できたり、人間や他の動物の意識がどう違うのかなどといった問題にも迫ることができるようになるかもしれません。

 次回連載第3回は10/2(水)公開予定です。

大泉匡史(おおいずみ・まさふみ)プロフィール

2005年、東京大学理学部物理学科卒業。2010年、東京大学大学院新領域創成科学研究科にて博士取得。理化学研究所、米ウィスコンシン大学、豪モナシュ大学でポスドク研究員として在籍した後、株式会社アラヤにマネージャーとして在籍。
2019年4月より東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻准教授。理論神経科学、特に意識の理論的な研究に従事している。

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佐藤喬

作家・フリーの編集者。著書に『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。構成作は『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極壽一/鈴木俊貴、集英社)、『AIに意識は生まれるか』(金井良太、イースト・プレス)ほか。

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