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自由の到来か、それともディストピアか? 早川書房編集者・一ノ瀬翔太が読む『メタバース さよならアトムの時代』

 仮想空間を指す〈メタバース〉という言葉は、ニール・スティーヴンスンが1992年に発表したSF小説『スノウ・クラッシュ』に初めて登場しました。これがのちに、数多くの起業家にインスピレーションを与え、2022年現在、インターネットに続く新たな経済圏として世界的なバズワードになっています。

 伝説的な作品である『スノウ・クラッシュ』を今年復刊させたのが、早川書房の編集者である一ノ瀬翔太さん。一ノ瀬さんはマイケル・サンデル『実力も運のうち』を筆頭に、時代を象徴するような多彩な翻訳書・話題作をヒットさせてきました。

 日本のメタバース・ブームにも一役買った一ノ瀬さんが、独自の視点で加藤直人さんの新刊『メタバース さよならアトムの時代』を読み解きます。

あなたはヒトラーの吐き出した原子を吸い込んでいる

あなたはほぼ確実にカエサルのおしっこを飲み、ヒトラーが吐いた息を吸っている。

コップに1杯、水を注いでみよう。そこにはおよそ10^25(10の25乗)個の水分子が含まれている。また、地球上の水の総量はおよそ14億立方キロメートルで、これはコップ7×10^21杯分に相当する。そして、カエサルが生きた古代ローマ時代から現在までに、世界中の水が再循環するだけの十分な時間が経過している(数十年でひと巡りするらしい)。以上のことから、いまあなたの目の前にあるコップの中には、カエサルが飲んで排泄したコップ1杯の水分子が1000個くらい入っていることになる。

おそらく、この文章を読みながらあなたは息をしていると思う。例によって1個の肺に入っている空気の分子数は世界中の肺の数よりはるかに多く、そして空気は水と同じように、しかしもっと速く再循環しているから、きっといまも、ヒトラーの吐き出した原子を吸い込んだはずだ。

以上、リチャード・ドーキンス『さらば、神よ』からの受け売り。世界とあなたを構成する目に見えない原子(アトム)は、つねに激しく流動している。メタバースではこんなことは起きないだろうから、あなたの内のカエサルやヒトラーを、いまのうちにせいいっぱい感じておいたほうがいいかもしれない。

加藤直人『メタバース さよならアトムの時代』は、メタバースの概念や現状を整理するとともに、人類が「アトムの時代」に別れを告げるという壮大なヴィジョンを示した一冊だ。本書にはこうある。

「岩には原子がたくさん含まれていて、それぞれが個別に動いているのだが、これらは人間にとってはまったく意味がない情報だ。原子の位置が具体的にここにありますよ、という情報を知りたい瞬間など訪れないのである。」

だから、

「メタバースを構成する空間や身体としてのアバターは、ヒューマンセントリックに情報を圧縮された形で表現されるようになる。つまり、人類の夢の生活スタイルとしてのメタバースは、人為的に「デフォルメ」された世界なのである。」

ここにカエサルやヒトラーの出る幕はない。

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新刊紹介

一ノ瀬翔太

1992年生まれ。東京大学卒業後、早川書房に入社。担当した書籍にニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ〔新版〕』、江永泉・木澤佐登志・ひでシス・役所暁『闇の自己啓発』、マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』、宮本道人監修・編著/難波優輝・大澤博隆編著『SFプロトタイピング』、ガイ・ドイッチャー『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』、ジョセフ・ヒース『啓蒙思想2.0〔新版〕』など。

Twitter @shotichin

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