よみタイ

武田信玄の野望を叶えた信州味噌

 ある時、ネットで「鯖の味噌煮」のレシピを見ていて、ふと不思議な思いにとらわれました。そのレシピの材料表には、「味噌」としか書かれていませんでした。写真を見ると味噌は白っぽく見えます。しかしそれだけでは、白味噌なのか淡色麦味噌なのか淡色米味噌なのかはわかりません。それらは風味はもちろんしょっぱさも甘さも全く異なり、どの味噌を使うか指定がないと、全く別の料理になるではないかと思ったのです。
 しかし次の瞬間、僕は自分の浅はかさに気付きました。どの味噌を使うかの指定が無いからこそ、それはあらゆる地域の人々にとっておいしい味になるのだ、というごく当たり前のことに気付いたからです。自家製の「手前味噌」の時代はおおよそ過去のものになりましたが、誰にとっても慣れ親しんだ味噌が一番おいしい味噌です。各自が違う味噌を使った違う味の「鯖の味噌煮」を食べていても、皆が一斉に「おいしい」と感じる、それは奇妙だけれど幸せな現象です。

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 とは言えやはり味噌の世界でも、ある程度の均一化は進んでいます。群雄割拠する味噌の世界ではありますが、現時点での最大勢力は米味噌である信州味噌です。信州味噌にも淡色と濃色がありますが、中心は淡色の方で、一般的に白味噌と言った場合、これを指すことが多いでしょう。前述の鯖の味噌煮も、おそらくですが信州味噌の淡色を使ったものと思われます。
 味噌の生産量の県別シェアで、長野県は50%を超えています。これはもはや、全国制覇と言っていいのかもしれません。武田信玄すら果たせなかった野望を味噌が果たしました。かつて敗れた織田・徳川の八丁味噌に、数百年越しに一矢報いたとも言えます(?)。
 東京にはもともと江戸味噌と言われるローカル味噌がありました。当時の文献を元に再現されたものを食べたことがあります。これは分類的には米味噌なのですが、一見八丁味噌とも見紛う濃い色合いで、味もどこか八丁味噌を少しマイルドにした印象でした。ちなみにごく初期の蕎麦つゆは、この江戸味噌を鰹節と共に煎じたものだったそうです。
 この江戸味噌は、米麹を大量に使用する高価なものでもありました。なのでその後、安価で保存性も高い仙台味噌が流行した時代があったり、関東大震災で生産者が激減したり、戦後に贅沢品としてGHQによる統制の対象になったりと、江戸味噌の文化は次第に失われていきました。
 最終的に東京では信州味噌が普及することになり、それは農村においても味噌が自家製から買うものになっていく時代の変化の中で、全国に波及していきました。
 このように、味噌の世界もなかなか一筋縄では行きません。そして一筋縄では行かない味噌の代表こそが、僕は八丁味噌だと思っています。個人的には非常に思い入れもある味噌ですので、次回はその辺りを(八丁味噌らしく)コッテリと語っていきたいと思います。待っとりゃあせ。

イラスト:森優
イラスト:森優

次回は4/19(土)公開予定です。

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稲田俊輔

イナダシュンスケ
料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。
和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店25店舗(海外はベトナムにも出店)の展開に尽力する。
2011年には、東京駅八重洲地下街にカウンター席主体の南インド料理店「エリックサウス」を開店。
Twitter @inadashunsukeなどで情報を発信し、「サイゼリヤ100%☆活用術」なども話題に。
著書に『おいしいもので できている』(リトルモア)、『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ!なのに本格インドカレー』(柴田書店)、『チキンカレーultimate21+の攻略法』(講談社)、『カレー、スープ、煮込み。うまさ格上げ おうちごはん革命 スパイス&ハーブだけで、プロの味に大変身!』(アスコム)、『キッチンが呼んでる!』(小学館)、『ミニマル料理』(柴田書店)、『個性を極めて使いこなす スパイス完全ガイド』(西東社)、『インドカレーのきほん、完全レシピ』(世界文化社)、『食いしん坊のお悩み相談』(リトルモア)など。
近刊は『異国の味』(集英社)、『料理人という仕事』(筑摩書房)、『現代調理道具論』(講談社)、『ミニマル料理「和」』(柴田書店)。

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