2025.3.15
家庭料理と違う……? 日本料理の世界における「普通の醤油」とは
さて、醤油の話に戻ります。
そういうプロの世界を経験した僕は、自宅でも当たり前のようにヤマサとヒガシマルの2種類の醤油を揃えて使い分けるようになりました。思えば鹿児島の実家でも、濃口醤油と薄口醤油は常に両方ありました。当時は和食には全く興味がなかったので、それらをどう使い分けていたのかはあまり記憶にありませんが、憶えているのは納豆には濃口醤油で卵かけご飯は薄口醤油だったことです。卵かけご飯に濃口醤油では、色が黒ずんでしまうし卵の風味もかき消されてしまう、みたいな蘊蓄を親から聞いた気がします。
それから年月は流れ、数年前から僕は、家庭向け料理レシピの仕事にも携わるようになっていました。家庭料理ですから、やはり和食がメインです。そこで僕は、ちょっとしたカルチャーショックを受けることになります。雑誌や書籍の編集者さんたちとのやり取りの中で、レシピに薄口醤油と書いていると、「カッコ書きで、無ければ濃口醤油、と入れてもいいですか?」と確認されることが度々あったのです。
編集者さん曰く「普通の家庭には薄口醤油はありませんから」ということでした。もちろん僕も知識としては、関東では関西ほど薄口醤油が使われない、ということは知っていました。しかしそれはあくまで各家庭における使用量の多寡の話である、と勝手に解釈していました。少なくとも、滅多に料理をしないような人ならともかく、雑誌を参考に料理を作るようなご家庭に薄口醤油が無いということは、ほぼ想定外だったのです。
面白かったのは、とある老舗雑誌にいくつかのレシピを提供した時の話です。この時は料理によって濃口醤油と薄口醤油を使い分けていたのですが、校閲の際に、濃口醤油は単に「醤油」と修正されて返ってきました。薄口醤油は薄口醤油のままです。不思議に思って確認すると「醤油と言えば濃口醤油のことに決まっているので、うちでは昔からこの表記なんです」とのことでした。醤油ひとつでいまだにここまではっきり地域的な認識の違いがあるなんて!と驚きました。
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このことは確かに、東京でスーパーの醤油コーナーを物色していても歴然としています。小型のスーパーでは、何種類か並ぶ醤油の中に薄口醤油がゼロということも珍しくありません。中型規模になるとようやく一列だけあったりしますが、それはヒガシマルではなく、関東の某大手醤油メーカーK社のものです。実は僕は、ヒガシマル以外の薄口醤油を手にしたこと自体、その時が初めてでした。そして驚いたことに、それは大型スーパーでも概ね同様です。
ちょっと前に、ヒガシマル醤油東京支社の方とお話しさせていただく機会がありました。その時にその方も、「業務用市場では関東も関西と変わりなく圧倒的シェアですが、家庭用市場ではなかなか配荷が進みません」ということをおっしゃっていました。僕としては「知ってた」という他ない明白な事実でしたが、一方でヒガシマル醤油社を代表する家庭向け商品である「ヒガシマルうどんスープ」は、もはやほとんどのスーパーに置かれている、という話も伺いました。
ヒガシマルうどんスープは、(既に関西以外の方もよくご存知かもしれませんが)昆布だし主体で色もごく淡い、いかにも関西的な商品です。この連載では度々、日本の食は関西化が進行しているという話をしていますが、ヒガシマルうどんスープの今や全国区となった人気ぶりは、このことを象徴する現象のひとつかもしれません。しかしそんな現代においても、「家庭で常備される醤油」という極めて根幹的な世界においては、まだまだ「方言」的な地方色が強いというのが実に興味深いところです。

次回は4/5(土)公開予定です。
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