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モデルの名前が失われても残るもの 第11回 カンヴァスをはさんで画家が対話する肖像

 同じくモデルの死後に描かれた肖像画に、アンドリュー・ワイエスの美しい作品〈アルヴァロとクリスティーナ〉(一九六八年)がある。しかし、この絵にはタイトルにもなっている二人の姿はない。絵の奥に広がるのは、二枚のドアのある室内である。画面右側から光が射し込み、暗い室内にうずくまるものたちを照らし出す。光が当たる青いドアは色が剥げかけ、その横にはフライパンと薄いピンク色の布が二つずつ釘に掛かっている。布地の一方はほつれた糸の先にぶら下がり、白い柱に影を落とす。そこに細い棒が立てかけられ、その足元には盥に入ったバケツがある。柱の陰、その暗がりに、もう一つドアがうっすらと浮かび上がる。そしてそこには、使い込まれた大きな籠が置かれている。

アンドリュー・ワイエス〈アルヴァロとクリスティーナ〉1968年 アメリカ、ロックランド[ファーンズワース美術館]©️2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/JASPAR, Tokyo E5409
アンドリュー・ワイエス〈アルヴァロとクリスティーナ〉1968年 アメリカ、ロックランド[ファーンズワース美術館]©️2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/JASPAR, Tokyo E5409

 一九三九年の出会い以降、ワイエスはクリスティーナとアルヴァロのオルソン姉弟と、二人が暮らす家(「オルソン・ハウス」)、それを取り巻く自然をカンヴァスの中に描き留めてきた。メイン州の彼らの家に滞在するうちに、数多くの二人の肖像画や風景画が手掛けられたのである。〈アルヴァロとクリスティーナ〉が制作された年の一月、クリスティーナは息を引き取り、一九三八年の十二月末にアルヴァロが亡くなっていた。友人でもありモデルでもあった二人がいなくなった家。その後も画家は幾度か訪れて、作品を描き続ける。その一つが、オルソン・ハウスの一室を描いたこの作品である。
 この絵のドアと置かれた日用品は、亡くなった二人を象徴している。〈続き部屋〉(一九六七年)に見られるように、青い扉はクリスティーナ・オルソンとその記憶に結びつくものであった。半ば開いた青い扉の向こうの部屋で、クリスティーナが椅子に腰を下ろしている。さらに、扉の横にあるフライパンは料理の際に彼女が使っていたものであり、ピンクの布地は〈クリスティーナの世界〉(一九四八年)でまとっていた服だといわれている。となれば、陰に沈む扉が表すのは、アルヴァロ・オルソンだということになる。この扉の向こうには、彼が気に入っていた椅子があり、床に置かれた籠はブルーベリー摘みのために使っていたものだということだ。

アンドリュー・ワイエス〈続き部屋〉1967年  [アンドリュー・ワイエス夫妻蔵]©️2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/JASPAR, Tokyo E5409
アンドリュー・ワイエス〈続き部屋〉1967年 [アンドリュー・ワイエス夫妻蔵]©️2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/JASPAR, Tokyo E5409
アンドリュー・ワイエス〈クリスティーナの世界〉1948年  アメリカ、ニューヨーク[ニューヨーク近代美術館]©️2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/JASPAR, Tokyo E5409
アンドリュー・ワイエス〈クリスティーナの世界〉1948年 アメリカ、ニューヨーク[ニューヨーク近代美術館]©️2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/JASPAR, Tokyo E5409

 ワイエスは三十年近くの間、この家でオルソン姉弟と過ごし、老いてゆく彼らや家と流れる時間を描き続けてきた。流れて過ぎ去る一方で、積み重なる時間の姿。〈アルヴァロとクリスティーナ〉では、二人の記憶を留めたものによって、彼らの姿や時間が浮かび上がってくるのだ。その意味において不在の肖像画でありつつも、この絵は通り過ぎた人たちの本質を静謐に見せてくれるのだろう。
 あなたを描く。眼差しの先にあるものを画家の筆は捉えた時、流れる時間の中で失われ続けるものが現前する。仮にモデルが不在であっても、カンヴァスをはさんで画家は対話をし続けるのかもしれない。その果てに見出された姿は、モデルの名前が失われようとも、記憶の肖像として在り続けることになる。
「ラウラ」と出会ったその翌日、相変わらず暗く寒々しい曇りの午後、美術史美術館に足を運んだ。イタリア・ルネサンス絵画の展示室を巡るうちに、〈若い女性(ラウラ)の肖像〉のある部屋にたどり着いた。彼女の姿がないまま、月桂樹だけが絵の中に取り残されているのではないか。気になって近づくと、「ラウラ」は透明な眼差しをどこかに向けたまま、身じろぎすることなく、深い黒の背景に包み込まれている。そのそばで、ジョルジョーネの絵を熱心に模写する女性がいた。白い紙の上を鉛筆が静かに踊り、さらさらというどこか固い音が展示室の空気を震わせる。背後からそっと覗いてみると、無彩のそこに「ラウラ」の姿が緩やかに浮かび上がろうとしている。しかし、その顔に当たる部分だけは真っ白のまま、痛々しいまでの空白を晒し続けていた。

編集協力/中嶋美保・露木彩

※本連載は今回で最終回となります。
ご愛読ありがとうございました。
連載に加筆修正の上、来年書籍化される予定です。
どうぞお楽しみに!

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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