2023.10.26
モデルの名前が失われても残るもの 第11回 カンヴァスをはさんで画家が対話する肖像
一方、この枢機卿と対立関係にあった宗教改革者たちもまた、見立て肖像画の中で顔を並べている。デッサウのザンクト・ヨハンニス聖堂に設置された祭壇画の中央パネルには、ルーカス・クラーナハ(子)の手で〈最後の晩餐〉(一五六五年)が描かれている。聖書の場面を表したそれは、一種の集団肖像画でもあった。
この絵画は、閉ざされた部屋を舞台とする。画面奥に延びる縦長の室内には、植物的な文様が繰り返された格天井、白と茶色に塗り分けられた壁板、緑の大理石のチェス盤模様の床、窓やアーチ状の開口部、広間中央に立つコリント式風の柱などが見られる。宮殿の一室と思しきこの空間は、大きく三つに分かれ、中景に最後の晩餐の卓が置かれている。四角い食卓には、キリストの肉と血を象徴するパンとワインを注いだグラスが各席に並べられ、中央の皿には神の子とその犠牲を示す仔羊の丸焼きが載っている(1)。食卓を囲むのは、伝統的にはキリストとその弟子たちだが、クラーナハ(子)の絵では柱を背に座るキリストと、その真向いのイスカリオテのユダ(2)以外は全員、宗教改革運動に深く関わりのある人々なのだ。鑑賞者から見てキリストの左に、アンハルト=デッサウ侯ゲオルグ三世(3)が腰を下ろし、彼と友誼関係にあったマルティン・ルター(4)がその左隣に、同じくフィリップ・メランヒトン(5)がキリストの右隣で晩餐の席についている。食卓を囲む残り九人についても、宗教改革の狼煙が上がったヴィッテンベルクの神学者たちなどモデルが特定されている。晩餐の席でキリストは、己を裏切る者の口にパンを差し入れているところだ。その証拠に、背中に回したユダの手は、キリストを売った銀貨三十枚入りの袋を握りしめている。
前景と中景は黄金の仕切りで分けられ、前景左では金糸の刺繍入り黒服を着た壮年の男性、アンハルト=デッサウ侯ヨアヒムが跪き祈りを捧げている(6)。彼は中景の「最後の晩餐」に参加しないことで、鑑賞者と聖なる場の仲介者としての役割を果たしているのだろう。さらに、前景右にはクラーナハ(子)自身が、献酌官として絵画内に身を置いている(7)。画家はワイングラスを会食者に差し出すことで、聖なる場への介入を果たしているのだ。この製作者の特権行為こそが、前景の侯爵と中景のキリストたちを結び付けているのかもしれない。そして、後景でも同じく、聖なる場面に立ち会う者たちの姿がある。壁を背に佇むのがアンハルト=デッサウ侯の一族(8)、その隣で給仕と彼に皿を渡す人物として描かれているのが、侯爵に仕えた宮廷人だとされている(9)。
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クラーナハ(子)の〈最後の晩餐〉には、聖書の場面とは思えないほど、実在の人物が圧倒的に多く描き込まれており、この点が他の同主題の作品とは一線を画すだろう。例えば、ディルク・バウツの〈最後の晩餐の祭壇画〉(一四六四―六七年)の室内装飾や食卓の様子はクラーナハ(子)作と似たところがあるものの、登場人物の描き方は従来通りである。場面の中心となるキリストと弟子たちを見守る形で、その周囲や後ろの壁の窓のところで目撃者の立ち会いが許されている。それに対しクラーナハ(子)作品の方では、聖書場面という形は残りつつも、やはり肖像画の機能が強いのだ。ルターやメランヒトンなどの宗教改革者はキリストの使徒たちに扮しているのではなく、その位置を彼らの姿のまま占めているように見える。これによって、彼らの活動や名声が宣伝されると同時に、侯爵たちの存在によって、宗教改革者たちとデッサウとの間にある深い結びつきも示されることになるのだ。
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