2020.9.24
「桃源郷・北朝鮮」の光と影 ~作家・万城目学が観た『愛の不時着』~
北朝鮮という、絶妙な「壁」の設定に加え、16年ぶりに観た韓流ドラマに、もうひとつ驚かされたことがある。
それはコメディーを完全にモノにしていたことだ。
2000年代前半、韓流ドラマが大挙、日本にやってきたとき、実は日本のドラマも韓国に進出した(『ごくせん』『トリック』などの名前を見かけた記憶がある)。
しかし、これがまったく受けなかった。
『トリック』が大好物であった私は、どうしてあれが受けないのだろうなあ、と歯がゆく思いながら、当時の分析記事を追ったものだが、そもそもドラマの好みが違うという身も蓋もない結論のなかに、ドラマではないが日本映画のよい点として、
「コメディー作品が多い。韓国映画は血なまぐさい、暴力的な展開が多いので、三谷幸喜作品のようなユーモアがあって、あたたかな作風は韓国にはないものだ」
という韓国からの意見を見つけたときは、うれしかった。
確かに、韓国映画の圧倒的なアクションシーンの迫力、社会の深部をシリアスに描く冷徹な描写力には、到底かなわないと思う一方で、コメディーがらみの「スットコ」力については日本の映画やドラマに一日の長があると、当時客観的な視点から、私も日本に軍配を上げたものである。
しかし、『愛の不時着』を観て、私は敗北感を新たに味わうことになる。
彼らはドラマの隅々に、コメディーの香りをちりばめてきた。しかも、ユーモアの震源をあろうことか、北朝鮮に潜ませてきた。北朝鮮婦人会のみなさんや第5中隊の四人組ボーイズが、ユン・セリと交わす、日常会話の中に自然と発生するおかしみといったら! 何も余計なものを加えず、そのまま北朝鮮の人間を演じることが、別の意味合いを、ユーモアあるズレを発生させる――。ひと粒で二度おいしい状況を、自在に作り出す脚本のクレバーさにほれぼれしてしまった。
たとえば、何事も革命精神でもって邁進するという北朝鮮的思考に基づき、婦人会のおばさまが、
「村中の女性が集まってキムチ作りの戦闘中なの」
と、かの地独特の表現で「お前もキムチ作りを手伝え」と持ちかけたとき、
「キムチで戦闘を?」
と返すユン・セリ。
たとえば、ク・スンジュンが車を使って、リ・ジョンヒョクの実家御殿から、ユン・セリとリ・ジョンヒョクの脱出を手伝ってあげるシーン。ユン・セリへのプロポーズの指輪を質屋に入れられたことを告げられ、その後も後部座席でいちゃつく二人に、運転席のク・スンジュンがため息をつく。
「ここで『降りてくれ』と言ってくれたら、気持ちいいのに!」
とイメージしたら、完璧なコメディーの間合いと表情で「降りてくれないかな」とク・スンジュンがぼやく。短い車内の沈黙、のち雨が急に降り始める――。
もう上から目線で眺められるものは何もない、と痛感した瞬間だった。
シリアスなシーンも多々あるが、この『愛の不時着』は基本的に全編「スットコ」が大手を振って歩く作品だ。みんなが大好き、スットコ・マスターのピョ・チスをはじめ、北朝鮮婦人会の面々、さらには隠れスットコ・クイーンのソ・ダン――。
最初の登場シーンはこわもてでも、そのうちにスットコ面があらわになる。
結局、最後までスットコ面に墜ちることを拒絶し、頑なにこわもてをキープし続けたのは、チョ・チョルガン少佐だけだった。冷徹そうな韓国国家情報院の捜査官たちでさえも、見る間にスットコ化していった。次兄夫妻は冷徹さ、残酷さを失わなかったが、根本がスットコであった。