2025.11.24
同世代の友人を見てわが身の老婆度を思う【第7回】グレイヘアへの決断
気がつけばその場で最高齢
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昨今は私も、気がつけばその場で最高齢、という状況が多くなってきました。すると、若い人々から妙に気を使われていたりすることに気づくのです。
私が明らかに間違ったことを言っても、曖昧な微笑みを浮かべるばかりで訂正されなかったり。また、かつて話したことを得意げにもう一回言ってしまった時も、やはり曖昧な微笑みだけ投げかけられ、
「その話、前も聞きましたよ」
と言われなかったり。
いずれにしても、私はそのことに後から気づいて、赤面します。そして「こちらが高齢であるが故に、若い人々に気を使わせてしまった。あの曖昧な微笑みは、高齢者に対する一種のケアなのだ」と思う。
高齢であるが故の衰えを、若い人々は理解し、思いやりを持って接してくれます。が、その思いやりが、高齢者を寂しい気持ちにさせていると言えましょう。
振り返れば自分も若い時代、同じことを高齢の人にしてきました。若者の目に、年をとった人の個性は見えません。仲間である若者の過ちには「何言ってるの」などと突っ込むのに、高齢者の過ちはスルー。「言っても仕方がない」と思っていたのです。
一定以上の年齢になった人は全て「おじさん」「おばさん」であり、さらに年をとった人は「おじいさん」「おばあさん」でしかないと、若い頃は思っていました。「おじさん」は不潔で、「おばさん」は、図々しい。「おじいさん」は偉そうで、「おばあさん」はおとなしい。……といった先入観に基づくイメージで、くくっていたものです。
年をとった人達にも、かつては青春時代があったこと。そして、どれほど年をとっても、欲望や情熱や夢や後悔を抱き続けているということを、私は知りませんでした。世界の中心にいるのは若者だと思っていた私は、老いをすみっこに追いやっていたのであり、その感覚は、親や祖父母達も気づいていたに違いありません。
たとえば私は祖母と二十年以上一緒に暮らしていたのですが、祖母がどんな性格だったかを、知りません。毎日着物を着て、髪はおだんごにして結っていた、「いじわるばあさん」的な外見だった祖母。今となってはマンガの中にしかその手のおばあさんは存在しませんが、当時は明治生まれのクラシックなおばあさんが、わずかながら生き残っていました。
私は祖母のことが大好きだったのにその性格を知らないというのは、祖母が家の中で個性を発揮することなく、「おばあさん」としてしか存在していなかったからです。
三世代同居の家族において、家事のイニシアチブは、母が握っていました。祖母の担当は庭の掃除程度で、これといった趣味も持っていなかったように思う。
祖母は耳が遠かったため、会話が成立しづらいところもありました。日々、やりとりされるのは、
「おばあちゃん、ご飯ですよ」
「おばあちゃん、お風呂どうぞ」
といった業務連絡的な会話ばかり。そのような状態で認知症にもならず九十九歳まで生きたのですから、祖母はどれほど孤独だったことでしょうか。
周囲に人がいるからこそ余計に孤独
高齢者の自殺率は、一人住まいの人よりも家族と住んでいる人の方が高いのだそうです。一人住まいの高齢者のことは周囲が色々とケアをするけれど、家族と住む高齢者は「家族と住んでいるのだから大丈夫」と、周囲が思って放置してしまう。しかし家族は高齢者とさほどコミュニケーションを取っておらず、周囲に人がいるのに、と言うよりは、周囲に人がいるからこそ余計に孤独、という状態になるのです。
祖母は、三食を家族と一緒に食べ、家族とコタツに一緒に入ってテレビを見て……と、家族と共に老後を過ごしたけれど、果たしてその日々は幸福だったのかどうか。「ます」という自身の名で呼ばれることなく、「おばあちゃん」とのみ呼ばれ続けた何十年かは、祖母にとって柔らかな牢獄のような日々ではなかったか。
若かった私はあまりに自分のことに夢中だったのであり、人間としての祖母を見ていませんでした。関東大震災の時の揺れがいかにひどいものだったか、などたまに教えてくれることがあったのに、
「そうなんだ」
と言う程度。今なら、地震の後にどのような生活をしたのか、近所の被害はどの程度だったのか等、聞きたいことはいくらでもあるのに。……と言うより、祖母のおいたち、祖父とのなれそめといったことも私はまるで知らないのであり、今となっては「どうして聞いておかなかったのか」という後悔が募るばかり。
年をとるにつれて他人から興味を示される機会は減っていきますが、それは高齢者を孤独にする大きな要因です。世の人々は、若者の間でどんなファッションやどんな言葉が流行っているかなどはいちいち気にするのに、高齢者が何を着ようと何を話そうと、いっこうに関心を持ちません。だからこそ、高齢者にその来し方などを聞くと、「待ってました」とばかりに長い話になりがちで、傾聴ボランティアなどという人が必要とされるのではないか。
長生きすることによる孤独も、あることでしょう。祖母がある時、
「もう、知り合いはみーんな、死んでしまいました」
と言っていたのを覚えています。祖母は当時としてはかなりの長寿者であったため、そのような事態となったのですが、その時も私は、
「そうなんだ」
程度の反応しかできなかったのです。
しかし今になってみると、「知り合いが全員死んでしまう」という事態の深刻さがわかります。若い人々から興味を持たれなくなっても、ウザがられても、同世代の友人によって救われることは多々あります。昔の思い出話や老化話をして、
「わかる、私もそう」
と言ってもらい、悩みや愚痴を吐き出すことによって、生きる活力は生まれてくる。
だというのに人並み以上に長生きをすると、そんな友人が全員、いなくなってしまうのです。悩みや不満があっても、家族には言うことができない。スマホなどもちろん存在しない時代なので、気軽に誰かと繋がることもできません。
最後の一人になるのは嫌
学生時代の、いわゆる仲良しグループの友人達と、
「最後の一人になるのは嫌だよね」
という話をすることがあります。これから、一人また一人と世を去っていくのだろうが、最後になったらどれほど寂しいか、という話なのですが、祖母はまさにその「最後」を、身をもって経験していたのです。
が、同居していた私達家族は、そのつらさも、わかっていませんでした。東京の人は東京タワーに登らないように、人は最も近くにいる人の思いを放っておくのです。
九十代になってからの祖母は、
「長く生きすぎてしまいました」
とも言っていました。友人知人が皆、あの世に行ってしまって寂しいだけでなく、長く生きていることによって家族に迷惑をかけている、とも思っていたことでしょう。
今時の若者であれば、
「何言ってるの、おばあちゃん。おばあちゃんにはもっと、長生きしてもらわなくっちゃあ」
などと、祖母の気持ちを楽にするような言葉を言うことができたはずです。しかし昭和の不器用な若者だった私は、上手に祖母を励ますことができなかった。孫の沈黙は、祖母の孤独をますます深めたに違いありません。
今、「どうしておばあちゃんと、もっとたくさん話をしなかったのだろうか」「おばあちゃんに会いたい」と、私はしばしば思っています。それは、自分が高齢者に近づいてきて、その寂しさがじわじわ理解できるようになってきたからこその思い。
ある日、仏壇にお線香をあげながら気づいたのは、私が死んだら祖母が生きた記憶も無くなってしまう、ということでした。祖母と共に暮らした家族の最後の一人である自分がいなくなれば、祖母は本当にこの世から消えることになる。
「なんだかそれが寂しくって」
と、グレイヘアにすべきかどうか悩んでいる友人に話していると、
「でもさ、それが本当の〝成仏″ってことなのかもよ」
と彼女は言うのでした。
「もう自分のことを思い出す人は現世に一人もいないってなったら、あの世の人は初めて自由になるんじゃないの?」
と。
なるほどね、と納得した私。
「自分があの世に行けば、おばあちゃんに会えるわけだしね。そうしたら、死んだ者同士で、色々と話してみたいな」
と、ハーブティーをすすったのです。
祖母との再会を夢見ながら思っていたのは、「それにしても我々も、永い付き合いであることよ」ということでした。十代の頃は、パジャマパーティーや苗場でのスキーの話でキャッキャしていた友と、今やグレイヘアや成仏の話で盛り上がるとはね、ということなのですが、それでもあまり遠くまできた気にならないのは、彼女の髪が黒いままだから。
「やっぱりさ、グレイヘアにしない方がいいんじゃない?」
と、念を押すかのようにもう一度、言ってみたのでした。
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*次回は12月22日(月)公開予定です。

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