2025.9.22
深夜のスーパーで、売れ残りの野菜から想像するのは 【第5回】選ばれない悲哀
男子達には自分は見えていない
選ばれないことの辛さを次に実感したのは、高校生の時でした。女子校に通っていた私達は異性に飢えていたので、しばしば男子校の男子達との集会をもっていました。
集会と言っても、昼間に茶菓を喫しながら未来について語り合う、といった清いものではありません。大人の言葉で言うなら合コン的な催しの高校生バージョンと思っていただければよいでしょう。
その手の会では、男子達の視線も興味も、可愛い子だけに集中します。野性をそのままむき出しにしている年頃の男子ですから、「可愛い子だけをちやほやしたら、他の子がかわいそう」といった気遣いをするはずがありません。
可愛くない女子はその時、草木と同じような存在でした。彼等の視線は、自分の前を高速で通り過ぎて可愛い友人の顔の前で交錯し、バチバチと火花を散らしていた。
「男子達には自分が見えていないのだな」
という孤独感は生物としての危機感にも通じていたのであり、その時に私は少しだけ、大人に近づいた気がします。
年をとるにつれ、むき出しだった野性は次第に社会性を帯びてきます。恋愛時に重要なのは、相手の容姿だけではないことにも、気づくようになってきました。
すると今度は、容姿以外の部分で選ばれることの厳しさも、感じるようになるのでした。明るい人は選ばれ、そうでない人は選ばれない。性格の良い人は選ばれ、そうではない人は選ばれない。……といった現実を見ると、内面が選ばれないことの深刻さは、顔面で選ばれないことよりもさらに重く迫ってくるように。
人間として選ばれないことの重みを最も実感したのは、就職活動においてでしょう。
私が就職活動をした頃は景気が良く、売り手市場と言われた時代でした。私のような者でも、最終的には一社の内定を得ることができたのですが、第一志望だった某社は、初期の段階であっさり落ちた。
女子総合職はごく少数しか採らない会社でしたから、最初から「受からないだろう」とは思っていました。が、いざ本当に落ちてみると、意外なほどにショックを受けたではありませんか。合コンでスルーされた時は、「顔は大したことがなくったって、人間は中身だ!」などと負けじ魂をメラメラさせたものですが、企業から「我が社はあなたを必要としていません」と宣言されると、中身もまた(おそらくは容姿の要素も加味された上で)否定された気がしたのです。
就職氷河期時代には、何十社と受けて全て不合格になったという人も、珍しくありません。
「今後のご活躍をお祈り申し上げます」
という定型文で締められた、不採用を通知する〝お祈りメール″を受け取るたびに、
「人格を全否定されているようで、心が折れた」
と、当事者は言っていたものです。
受験に落ちたのであれば、まだ学力面だけの不足を反省することになりますが、就職試験は、学力はもとより性格や能力、将来への期待値などが総合的に判断される場。「我が社はあなたを必要としていません」という宣言は、社会から拒否されるような気持ちをもたらすのでした。
就職活動では、世の中の厳しいシステムも知ることになりました。全ての企業は、「学歴は大した問題ではありません。肝心なのは、人間性とやる気」といった顔をしていましたが、蓋を開けてみると、一定レベル以上の大学を卒業した人しかいない有名企業は、たくさんありました。そうではない大学の卒業生もよく見ればわずかに存在するものの、その手の人は強力な縁故を持っていたりするのです。
学歴社会とはこれか、と私は遅ればせながら気づくことになりました。偏差値の高い大学に行け、と世の親達が子供に盛んに言うのは、このような現実があってのことだった。一定以上の大学に進まないと、ある種の企業からはほぼ選ばれないという事実は、おぼこい私にとって大きな驚きでした。
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「選ばれる」と「選ばせる」
そんなショックと共に社会人になると、社会では選んだり選ばれたりすることが仕事の大部分を占めるということも、じわじわとわかってきます。自社の商品を選んでほしい、とメーカーは消費者に訴える。誰を出世させるか、上司は部下を選ぶ。自社に発注してほしいと、下請けは元請けにアピールする……。「選ばれる」ためには不断の努力が必要であり、選ぶ側と選ばれる側の間には、上下関係があったのです。
選ばれるとは何と大変なことか、と思ったものの、選ばれるために努力する大人達の姿は、次第に格好良く見えるようになってきます。当時の若者は、その手の泥臭い努力を嫌いました。アイドルとしてデビューする人も、
「あらゆるオーディションを受け続け、やっと補欠合格しました」
という野心漂うプロフィールより、
「原宿を歩いていたら、たまたま今の事務所にスカウトされて。断ったのですが、翌年もまた同じ方にスカウトされたので……」
といった「何の野心も持っていなかったけれど、思いがけず選ばれた」といったストーリーの方が好まれた。
自分はアイドルではないけれど、恋愛でも仕事でも、「私を選んで!」と懇願するのでなく、「たまたま選ばれちゃって」という具合に生きていければなぁ、などと目論んでいた若者時代の私。しかし多くの大人達が、選ばれるためになりふり構わず努力している姿は、自分の甘さ、幼さを浮かび上がらせたのです。
思えば私は、選ばれなかったことで孤独に沈んだ時に、それを他人のせいにしていました。合コンの時、男子の視線が可愛い子にだけ集中すると、「顔でしか判断しない男子が悪い」と思っていたのです。
が、顔はそれほどでもないというのに、髪型も服装も工夫し、男子から見て可愛いムードを作り上げて、相当の注目を得た女子も、中にはいました。彼女は陰で「ぶりっこ」などと揶揄されたけれど、それは何の努力もせずに注目も得られなかった私のような者の嫉妬だった、と今にして思う。
「選ばれる」と「選ばせる」は、実はかなり違うことなのでした。
「たまたま原宿でスカウトされて」
といった顔で人生を歩む「選ばれた人」は、責任を負わなくてもよいのです。選んでくださいと頼んだわけではない。あなたが私を選んだのでしょう、と。
対して努力の結果として自分を「選ばせた人」は、「選んでもらったからには」と、その責任を果たすべく、その後も頑張り続けるのでした。
昔と違って、今はアイドルも、選ばせるための努力を公にする時代になってきました。人気を得るためにこんなに頑張っています、という過程に、ファンが共感するようになったのです。
結婚市場においても、「婚活、頑張っています」と公言するのは、何ら恥ずかしいことではなくなりました。選ばれるのをただ待っているだけでは何も動かないことを、皆が知るようになったのです。
ブロッコリーは野菜なので、スーパーにおいて、見た目で判断されるしかありません。深夜まで売れ残ったブロッコリーは、もう数時間経つと、廃棄されてしまうのでしょう。
が、人間は野菜ではないので、選ばせるために自分でなんとかすることができます。結果として選ばれなかった時も、そこからまた次の手を打つことができる。……ということで、「選ばれない」という体験は案外、人を強くするように思うのでした。
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*次回は10月27日(月)公開予定です。
