2025.9.22
深夜のスーパーで、売れ残りの野菜から想像するのは 【第5回】選ばれない悲哀
一方で、孤独死、孤食、ぼっちなど、「一人」に対して、否定的なイメージがつきまとうことも否めません。
家族関係も多様となり、ネットやオンラインで会わずにつながる関係性も行きわたった昨今、一人=孤独というわけではないにもかかわらず…。
隣に誰かがいても、たとえ大人数に囲まれていても、孤独は忍び寄ってくるもの。
『負け犬の遠吠え』『家族終了』『男尊女子』『消費される階級』など、数多くの著書で時代を掘り下げ続ける酒井順子さんが、「現代人の孤独」を考察する新連載です。
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最寄り駅の近くに、二十四時間営業のスーパーがあります。遅く帰ってきた時、「そういえば卵がなかった」などと寄ることがあるのですが、深夜のスーパーを歩くと、私はいつも寂しい気持ちになるのでした。
特に野菜売り場にあるのは、その日に売れ残ったもの達です。ブロッコリーのコーナーでは、茎の切り口がうっすら黒ずんでいるもの、房の一部が取れかかっているものなどが、わずかに残っているだけ。ブロッコリーがほしくても、カゴに入れるのを躊躇します。
葉物にしても果物にしても、深夜まで残っているのは、新鮮さに欠けるものや、見た目に難があるものばかり。鮮度や見た目が今ひとつでも十分においしく食べることができるのだから、それらを買った方がフードロスにならないことはわかっているけれど、それでもやはり、「明日また、新しい商品が入ってから来ようかな」と思うのでした。
生鮮食品を買う時、良い品を見分けようとする消費者の目は真剣です。同じお金を払うなら、少しでも良いものを買いたいということで入念に色艶を眺め、新鮮さをチェック。そんな消費者の選択から漏れ続けたものが、深夜まで売り場に並んでいる商品です。
そして私はそれらの野菜に、そこはかとない同情を抱くのでした。同情するくらいなら買えばいいのですが、同情はするけれど、買いたくはない。自分の冷蔵庫で古びた野菜なら食べますが、スーパーで視線にさらされながら古びた野菜は嫌なのです。
この感覚は、男女交際においても共通する物であるよ、と私は思います。四十歳を過ぎた頃だったか、周囲の独身者が、
「年をとったからって、人間の価値が下がるわけではないのに」
と悔しがっているのを、何度も耳にしたことがあります。彼女は、年をとるにつれ、異性に選ばれることがどんどん少なくなってきたことに憤っていました。自分には年齢と共に積み重ねてきた経験値や人間的魅力があるというのに、異性の視線は若い人の方に行ってしまう、と。
彼女の気持ちもわかるのですが、私はその時、深夜のスーパーのブロッコリーのことを思い浮かべていました。人間とブロッコリーを一緒にするな、という話はごもっとも。しかし、人であろうと野菜であろうと、自分にとって好みの方をつい選んでしまうのが、人間です。
だから、怒らない方がいい。いくらあなたが正しいことを言っても、男性は倫理的に正しいかどうかではなく、生物としての本能で選択しているのだから。……と思ったものの、それを口にすることが憚られたのは、私もまた、選ばれない悲哀をよく知る者だからなのでしょう。
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選ばれないことのつらさを初めて感じたのは
選ばれないことのつらさを初めて感じたのは、おそらく幼稚園の時の「はないちもんめ」の遊びにおいてでした。
子供達が二組に分かれて向かい合い、
「勝ーって嬉しいはないちもんめ」
「負けーて悔しいはないちもんめ」
と歌い合った後に、
「○○ちゃんがほしい」
と、ほしい子を指名する。じゃんけんをして、勝ったなら○○ちゃんは相手側に移籍するという、よく考えると、これは人身売買をテーマとしたゲーム。
その時、早いうちに指名されたり、何回も指名されるのは、人気者の子でした。対して人気が無い子は、いつまでも指名されることがありません。
この遊びの時、私は「せめて一回は指名されたいものよ」と、願っていました。人気者ではないので、ドラフト一巡目で指名されるのは無理だろう。しかし何巡目かでは、指名がかかってほしい。最後まで指名なしだけは嫌だ……。
思い返すに、かなり残酷な遊びであるはないちもんめ。人権意識が高まった今となっては、人身売買的な行為はいかがなものかとか、子供達の人気の高低を可視化するのはけしからんということで、行われなくなっているのかもしれません。
対して私の時代は、この遊びによって、「選んだり選ばれたりするのが人生」という事実を、子供のうちに叩き込まれました。さらには、「選ばれない」という状態がどれほど寂しいことかも知ったし、「人気」という、つかみどころが無いけれど人心を大きく左右するものがこの世にあることも知ったのです。
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