2025.6.23
陰キャだって思われたくない【第2回 孤独に最も近い人】
孤独ではない自分を誰かに見せつけたい
小さな子供であっても、一人になることのつらさを本能的に知っているからこそ、仲間はずれや無視はスタンダードないじめ行為として、いつの時代も生き続けるのでしょう。そもそもは群れで行動することによって生命を保ってきた人間としては、一人になるのは危ない事態。テクノロジーの発達等によって一人でも生きていけるようになった今でも、人間の中には、その記憶が染みついています。
仲間はずれや無視は、いじめる側が自己の優位性を、いじめられる側に見せつける行為でもあります。いじめっ子は、仲間はずれにした子に、自分達の仲良しぶりを見せつけ、「あの子は一人ぼっちだけれど、私には友達がいる」という充足感を味わっている。その見せつけ行為が、いじめっ子にとっての醍醐味となるのです。
誰かを傷つけてでも味わわずにはいられなくなるほどに甘い、「孤独ではない」という状態。この「孤独ではない自分」を誰かに見せつけたいという欲求は、時代と共に増大しているように思います。
そのことに最初に気づいたのは、平成時代のギャルブームの頃でした。プリクラが流行すると、ギャル達は友達と一緒に写ったプリクラに、
「ズッ友」
「マジうちら最強」
といった、自分達の友情を讃美するワードを、しばしば書き込んでいたのです。
私はそれを見て、サイン帳を思い出しました。昭和世代には、卒業間際になると友人達にサイン帳(というものがあった)に、
「卒業してもずっと仲良しでいようね」
などと書いてもらう風習があった。友情の確認という意味で、それはプリクラと似た行為だったのかもしれません。
異なるのは、サイン帳は自分だけで眺めるものだったのに対して、プリクラはシールなので、様々なものに貼って、自分以外の人に見せることができたというところです。「言葉等を書き込める」ことと、「容易に他人に見せることができる」というのが、サイン帳とも従来の写真とは異なるプリクラの画期的な点でした。
ギャル達はプリクラを通して、自分がいかに素晴らしい友人を持っているかを周囲の人に示していました。恋人がいる人は恋人と撮ったプリクラも活用していましたが、いなければいないで、友達がいる。それは、「私は孤独ではない」というアピールだったのです。
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どうして私はここに呼ばれていないのだろう
時が流れてSNSの時代になると、「私は孤独ではない」アピールが、SNS上で爆発的に溢れ出るようになります。友人知人や家族との食事会、パーティー、旅行といったいかにも楽しげな画像を、あの人もこの人も盛んにアップするように。
その手の画像は、SNSを見ている者をも楽しませましたが、同時にその心を蝕みもしました。画像に写る食事会なり旅行なりが華やかで充実したものであればあるほど、見ている側は、
「こういう人達に比べて私は……」
とか、
「どうして私はここに呼ばれていないのだろう」
などと思って落ち込んだのです。
SNSにアップされた楽しげな写真は、友情にも質がある、ということをも主張していました。ギャルのプリクラに書かれた「ズッ友」「マジうちら最強」といったフレーズは、友情の強度や質の高さを主張しましたが、同じようにSNSの画像にも、
「最高の仲間に感謝」
といった、自分達の友情は、他の友情よりも質が高い、と友情を序列化する文言がしばしば添えられたのです。
SNS、特に知り合い同士が繋がるフェイスブックの流行初期は、このように人々の中の「自分が孤独ではないことを、世間にお見せしたい」という欲望が溢れ出た時代でした。その欲望の濃厚さにアテられ、「それに比べて自分は」と落ち込むという現象は、世界的に見られたようです。
SNSに楽しい集いの画像をアップするという行為は、小学生が友達を仲間はずれにするのと同じような感覚のもとに為されていたように私は思います。それは、画像に写っている人以外を仲間から除外し、「私はこんなに楽しいことをしたのです(あなたを誘わずに)」と教える行為。ネット上にただ写真をあげるだけにもかかわらず、見ている側にいじめと同等の精神的ショックがもたらされるのも、無理はありません。
SNSのバブルがピークを過ぎると、その手の行為は「リア充アピール」などと言われるようになり、次第に目立たなくなりました。リア充アピールを盛んにしていた人にも含羞のようなものが生まれ、事態は沈静化していったのです。
プリクラやSNSといった新技術が登場するたびに世に噴出する、「自分は孤独ではない」というアピール。これは、個人の自由が重視されて、友達を持つ・持たないの自由もまた尊重されるようになってきたからこその現象です。
リア充(笑)
「一人でいたって、いいんだよ」
という声が増えてきたということは、それだけ一人でいる人が増えたということ。リア充組はその様子を見て、孤独ではないことの幸せをますます噛み締め、その幸せを皆に見せたくなったのではないか。
そもそも「リア充」は、ネットの中では生き生きしているがリアルではそれほどでもない、という人達とは反対に、「リアルで充実した人生を送っている」人を示す言葉として登場しました。
リア充と言われるタイプの人は、昔だったら「明るい」「活動的」といったポジティブな言葉で表現されたものです。が、ネット社会においては、そこに(笑)的なニュアンスが加わることになりました。ネットという、リアルとは異なる価値観の社会が出現したことによって、リア充ぶりをほとばしらせている人は、ニヤニヤと見られるようになったのです。
同様に、昔だったら「暗い」「地味」と言われていた人々は、リアル生活は地味でも、ネットという確固たる居場所を得ることになりました。昔は揶揄語として使用されていた「おたく」は世界的に知られる言葉となり、その地位もぐっと向上したのです。
ネットに潜ることができるようになったからこそ、「友達百人」の必要性が薄れてきた今の世。では、友達が多かろうと少なかろうと、誰もが気にせず生きていくことができるようになったのかというと、そうではないようです。
若者は、今も「陰キャ」「陽キャ」といった分類を気にしている模様。それでも、「自分は陽キャ」「自分は陰キャ」という自覚がある人は、まだ決まった居場所があるので、安定しています。陽キャはなんだかんだ言って友達に不自由していないし、陰キャは一人でも平気なのだから。
対して両極以外の真ん中辺りで、「本当は陽キャになりたい」とか「陰キャだって思われたくない」とうろうろしている人に、私は危うさを感じるのでした。そんな人達が、
「友達が多ければいいというわけではない」
「一人だって大丈夫」
という優しい声を信じてしまうと、後から孤独の問題が重くのしかかってくる気がしてならない。
ぼうっとしていると、簡単に一人になることができる今。根っからの陽キャでもなければ、ネットの中だけで生きて幸せというわけでもない〝普通の人々″こそ、実は最も孤独問題の近くにいるのかもしれません。
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*次回は7月28日(月)公開予定です。
