2018.10.25
帯留め(四)
やがて、古い紙箱が掌に載せられてきた。
店主はそれを受け取って、濃い紫の天鵞絨を敷いた台に載せて、箱を開いた。
長さ五センチほどの帯留だ。
一瞥した瞬間、今までの物とは、格が違うのが見て取れた。
18金を台にした半身の鮎が、涼やかに身を泳がせている。
四分一の中でも銀の多い朧銀と呼ばれる合金に、金象嵌が施されている。だが、目を射るような光はすべて、品の良い濃淡で殺してある。
計算され尽くした造形だった。
背から腹部に掛けての真に迫った魚の色味、胸鰭の上に並んだ斑点、そこから緊張感のある側線が尾に続いていく。
大きく精悍な唇も目も、生きているかのごとくだ。そして、流れるような背鰭が、まさに、この鮎が清らかな流れの中を遡上していることを知らせてくれる。
名工の作だ。
絶対の自信があるゆえに、外連味もなく、ただ純粋だ。
「これは、」
賛辞が喉に詰まった。俄に襟足がそそけ立つ。
(まずい)
身に覚えた感覚に、心の奥がひやりとした。
が、途端、止める暇もなく、私は呟いていた。
「……よくぞ、残っていてくれた」
涙が零れた。
同時に、私は心の中で「誰!?」と、大きく叫んでいた。
しまった。
取り憑かれた。
今の言葉と涙は、私とは違う誰かの思いだ。
漏れる嗚咽を堪える私に、時計屋夫婦が無言で顔を見合わせる。
ええ、そりゃ、驚くことでしょう。私自身、びっくりだ。
(誰? 親父さん? それとも、作者?)
探ったものの、当人たちとは面識がないから、わからない。
年配の男性というのは、確かだ。そこそこ時代が古いのもわかる。
(よくぞ、なんて言わないでよ! 時代劇じゃあるまいし)
心で私は悶えたが、肉体は畏まった様子で鮎を眺めているだけだ。
(困った)
離れそうにない。
見知らぬ男性が、私以上に感激し、喜び、噎び泣いている。
(やめてよ。もう、恥ずかしい!)
二度と、店に来られないじゃないか。
しかし、抵抗は虚しく、すべて封じられた。
強い。
怖くなってきた。
そのとき、店主が言葉を放った。
「そんなに感激して下さるなら、お譲りしてもいいですよ」
「えっ?」
私自身が驚いたせいか、はたまた物欲にはね飛ばされたか。声と同時に体がすっと楽になった。
店主は再び鮎を取り、腹に彫られた銘を示した。
「これは海野勝珉の作です」
「え……ええっ!?」
海野勝珉とは、幕末に生まれ、明治彫金界の主流を成した名工だ。
私は以前、彼の作品を宮内庁三の丸尚蔵館で観たことがある。
作者がその勝珉ならば、素晴らしいのは当然だ。
しかし、逆にこうなると、安易に欲しいなどとは言えない。
欲しいのは確かだが、欲しいけど……。
私は再度、鈍い光を放っている鮎の帯留を凝視した。
「売るおつもりなかったのでしょう?」
恐る恐る、私は言葉を継いだ。
店主はゆるりと首を振る。
「いいんですよ。誰ともわからない人には売りたくなかったので、外に置かなかっただけですから。けど、持っていても、私が死んだ後、二束三文で処分される可能性がありますからね。まあ、あまり安くはできないので、よろしければ、という話ですが」
そう言って提示された値段は、確かに安いものではなかった。
それだけの金額を出せば、ウィンドウに並んでいた帯留がいくつも買える。
しかし、困ったことに、店主が口にした鮎の価格は、私が覚悟したものの半分以下だったのだ。
これが相場なのか、はたまた破格に安いのか。いや、贋物ということもある。
安い。いや、高い。高いけど……。
何をどう言い訳しようと、既に心は決まっていた。
息を吐き、私は天を仰いだ。
「この辺りに、ATMはありますか」(つづく)