2018.10.23
帯留め(二)
最近、他人の着物や着付けに口を出してくる人を「着物警察」と呼ぶと聞く。九割九分が年配女性という話だが、彼女たちは場所柄に合わないとか組み合わせがおかしいとか、または、帯が変だ、着付けが下手だと口や手を出してくるのだという。
そういう人種を「着物警察」と呼ぶならば、私にとっての母は「着物特高」だ。
何をどうやっても、クレームがつく。
着付けを教えると言いながら、肌襦袢から始まって、紐の結び方、衿の合せ方、何から何まで細かく物言いをつけて怒り、苛立ち、最後には自分で私に着付け始める。合間に手を出そうものなら、ものすごい勢いで怒られる。
着付けを覚えるどころではない。
母にしごかれ、罵倒され……私は着物を諦めてしまった。
まあ、当然の結果だろう。
悪い教育の典型例だが、誂えてくれた着物のほとんどは晴れ着に等しいものだったため、着る機会も滅多にない。機会があるときは、母の手がある。大体、どんなに欲しくても、着物を買うお金がないのだ。
(だから、もういい)
思い切ってから数十年、私は着せてもらう以外、和服には袖を通さなかった。
但し、愛着断ちがたく、着物周りの文物や着物が日常着だった時代の文化には、人より敏感に反応した。
餓えたゆえの貪欲さは、結果として日本の歴史や文化への興味と知識になったので、悪いことではなかった。が、それでも、着物は着なかった。
――それが覆ったのが数年前。
確か、五月の夕暮れ近くだ。
私は古い下町の道を、用足しついでに歩いていた。
子供の頃から知っている場所だが、並ぶ店舗のほとんどは往事とは入れ替わっている。
馴染みだった文具屋はなくなり、老舗の下駄屋も廃業し、呉服屋から転身した洋品店には客の姿を見たことがない。
昭和から続くこういう個人商店は、今、ほとんど後継者がいない。経営者が年を取り、店を開けるのが億劫になれば、そのまま廃業してしまう。
とはいえ、シャッター街となるほどに、東京の地価は安くない。跡はコインパーキングになったり、小ぶりなマンションになったりと、思い出を偲ぶ暇もなく、通りの表情は変わっていく。
活気はない。
しかし、老いた猫が日向ぼっこをしているような長閑さがある。
私は歩を緩めて、のんびり歩いた。
やがて、街灯が点き始める頃、古い時計屋が視界に入った。
入ったことこそなかったが、子供の頃から見知った店だ。
この手の店は「時計店」の看板を上げつつ、貴金属も一緒に扱っている。
今でこそ、安価な品も売られているが、戦後から暫くの間、時計――特に腕時計は、ダイヤの指輪と並んでもおかしくない高級品だったのだ。
その名残で、店には今でも宝飾品と時計とが同じウィンドウに入っている。以前は、結構、質の良いアクセサリー類が並んでいたはずだ。
(今はどうなっているんだろう)
私は通りすがりに視線を向けた。
――何やら黒い。
ウィンドウに並んでいたのは、透明感のある宝石やメタリックな時計の輝きではなく、小さな黒い物体だったのだ。
私は店に近づいた。そして、
「しぶいち……」
思わず、呟いていた。
四分一とは銀と銅の合金で、色金と呼ばれるもののひとつだ。
名の由来は、銀の比率が四分の一であることからきている。
遠目には黒とも見える銀灰色は、江戸の人々に好まれて、莨入れの前金具や根付け、刀装具の小柄や笄、大きな物では壺や茶道具にもなった。
特に幕末から明治期に掛けては名工が多く輩出されて、超絶技巧とも謳われる緻密で精緻な工芸品は、現在も国内外で高い評価を受けている。
ガラス越しに見る四分一は、決して逸品揃いというわけではなかった。
しかし、現代のものに比べると、格段に小さく、細工は細かく、逆にモチーフと意匠はとことん地味だ。
たとえば、長さ二センチほどの重なりあった二枚貝の縁に、きらりと金象嵌が光っている。
遠目で見れば、何がなにやらわからない。なのに、少し近づけば、浅蜊でも蛤でもなく、確かに蜆だとわかる。
ウィンドウには、そんなものが数十個、ずらりと並んでいたのだ。
私は更に顔を近づけた。
ほとんどの品物の裏には、紐を通す金具がついている。
(帯留か。……となると、明治以降。大きさからすると、下っても昭和半ばかな)
着物好きが空回りしたため、こういう半端な知識はある。
帯留自体は江戸時代からあったらしいが、帯留専用ともいえる三分紐が出たのは明治以降だ。
しかし、現代物にしては小さすぎる。
明治時代以前から、大振りの帯留は存在したが、ここまで小さく地味で、しかも精緻な細工物は、時代が古いか、古い時代の工芸品を帯留に直したかのどちらかだ。
着物は着ない。
だから、帯留は必要ない。
しかし、通り過ぎることもできない。
額を擦りつけるようにして、私は帯留を凝視し続けた。(つづく)