2023.2.15
『プラダを着た悪魔』で卒業論文は書けるのか?――映画批評家が教える「自分だけの問い」の見つけ方
要約からスタートし、問いを洗練させていく
ここでは映画の細部から問いを立て直す過程を紹介したが、要約からスタートする方法もある。じっさい、僕が担当している映画論の授業では、「映画の内容を一言で要約する」という課題を出すことがある。『プラダを着た悪魔』なら「主人公の成長物語」と要約できる。もう少し具体的に「主人公が鬼上司の無茶振りに応えながら人間的に成長していく物語」とまとめてもいいだろう。
要約は必然的に情報不足に陥る。なぜそのような要約にしたのかを映画に即して説明していけば、そのままレポートが書ける。問いを意識して構成を考えればさらに論文に育てることもできる。
たとえば「映画『プラダを着た悪魔』における主人公の成長を描くための工夫」というような題目を設定して「どのような工夫が見られるか」を書いていけば、どうにか卒業論文らしきものにはなるだろう。しかし、僕の感覚からすれば、これだと少々生真面目すぎる。論文なのだから生真面目で悪いことはないのだが、批評家としての欲が出てくるのである。
そこで、問いにひねりを入れてみることにしよう。再び映画の具体的な描写に立ち戻る。最終的に、アンディはミランダのもとを去る。結末における彼女のこの決断は、ファンの間でも物議を醸している。そこで「アンディはなぜミランダのもとを去ったのか?」という問いを立て、その答えとして「アンディの成長」を持ってくるわけである。
しかし、なぜアンディの成長が最後の決断につながるのかは、もう少し具体的に説明する必要がある。大きな問いに答えるには、その問いをより小さな問いに分割して、ひとつずつ答えていけばよい。その小さな問いの配置が論文の構造を決めていく。
いい論文や批評における議論は、複数の問いとその答えが相互に呼応しながら有機的に進んでいくものである(批評の場合は、問いが問いの形で直接的に表現されていないこともある)。『プラダを着た悪魔』の場合は、アンディがどのような段階を踏んで成長していったのか、それを経て、最終的にどのような境地に至ったのかを検討してみる。映画を構成する各シーンを、アンディの成長という観点から捉え直し、なぜそこにそのシーンが置かれていくかを考えるのである。
アンディがたどった成長の軌跡
右も左も分からない状態でファッション業界に足を踏み入れたアンディは、当初、アクセサリーの些細な違いに病的なまでにこだわる人々のことを内心バカにしていた。ところが、ミランダのもとで仕事を続けるうちに、次第に前のめりになっていくのである。
アンディがファッション業界の仕事に慣れるまでの時間経過は、ミランダの「連続コート投げ」によって洒脱に演出されている。出社してきたミランダは、アンディの机の上にコートとバッグを放り投げていく【図2】。それを片付けるのは第2アシスタントのアンディの仕事である。
ミランダのコート投げは実に17回にもおよぶ。毎回異なるコートを投げながら、彼女はアンディに次々にハードな仕事を言いつけていく。それをこなすべく奮闘するアンディの姿を短いショットで見せつつ、わずか1分ほどで数ヶ月の時間経過を表現しているのである。シーンの最後にはスムーズに電話の取り次ぎをおこなうアンディの様子が描かれている。これによって、アンディが基本的な雑用仕事に慣れてきたことが観客に伝わる。また、このシーンに散りばめられた描写は、後に伏線として回収されることになる。
その後、アンディは致命的な失敗を犯して一度はミランダの信頼を失いかけるが、ナイジェルの言葉とコーディネートによって立ち直り、「ハリー・ポッター」シリーズの出版前の最新刊の原稿を入手するという無理難題をこなして華麗にカムバックを決めると、遂には第1アシスタントのエミリーの座を脅かすに至る。
彼女が最初の失敗から立ち直っていく過程は、連続コート投げと似たような演出で描かれている。出勤途中のアンディが車や建物の影に隠れる瞬間に彼女の服装がガラッと入れ替わるのである【図3、4】。一度の出勤中に6種類の服装が提示されているように見えるが、複数日にわたる出勤の様子を省略し、圧縮しているのである。
最初はミランダに名前を覚えてもらえず「エミリー」と呼ばれていたアンディだが、中盤のシーンから「アンドレア」と呼ばれるようになる。このさりげない描写によって彼女がミランダに認められつつあることを示唆している。ミランダにとって第1アシスタントと第2アシスタントの差などどうでもよいことだった。しかし、アンディの仕事ぶりを評価し、個人として認識しはじめるのである。
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