2022.12.14
新作『すずめの戸締まり』まで連なる、新海誠作品における「孤児」たちの系譜――なぜ、誰かを「ケアする」人物を描くのか
ストーリーを追うだけでなく、その細部に注目すると、意外な仕掛けやメッセージが読み取れたり、作品にこめられたメッセージを受け取ることもできるのです。
せっかく観るなら、おもしろかった!のその先へ――。
『仕事と人生に効く 教養としての映画』の著者・映画研究者の伊藤弘了さんによる、映画の見方がわかる連載エッセイ。
前回は、荻上直子監督による人気映画『かもめ食堂』(2006年)を取り上げました。
今回は、新作『すずめの戸締まり』が公開中の新海誠監督の作品に通底する「孤独とケア」について考察します。
「大人」不在の世界
新海誠作品の主要登場人物には「孤児」が多い。
たとえば、最新作の『すずめの戸締まり』では、主人公の鈴芽に「震災孤児」という設定が与えられている。鈴芽とともに旅をすることになる草太にしても、両親のことは一切描写されない(家族として入院中の祖父は出てくるが)。『星を追う子ども』(2011年)のシュンとシンの兄弟や、『天気の子』(2019年)の陽菜と凪の姉弟も孤児である。
親が健在の場合でも、極端に存在感が薄い。『ほしのこえ』(2002年)では、SF的な世界観のなかで宇宙と地上に引き裂かれた美加子と昇の切ない関係性が描かれる。二人の両親はおろか、劇中にはほかの大人たちの影さえ見えない。社会のありようを省略して少年少女の関係にのみ焦点を合わせた本作は「セカイ系」の代表作と目されている。
『雲のむこう、約束の場所』(2004年)の物語は、浩紀と佐由理、それから拓也を軸に展開していき、やはり彼/彼女らの両親が姿を見せることはない。『秒速5センチメートル』(2007年)の貴樹と明里は、親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされ、離れ離れになってしまうが、それにもかかわらず両親の存在感は希薄である。東京に住む貴樹が栃木の明里を訪ねた際には、駅近くの畑の脇の納屋で二人だけで一夜を過ごす。このときの二人は中学一年である。普通に考えれば明里の家に向かうべき状況だが、このシーンに親の気配はまったく感じられない。『天気の子』の帆高は家出をして離島からフェリーで東京にやってくる。両親はまったく出てこず、離島で何が起こったのかも明かされない。だが、家族との関係がうまくいっていないことはうかがえる。
『星を追う子ども』、『言の葉の庭』(2013年)、『君の名は。』(2016年)の主人公たちは単親家庭である。『星を追う子ども』の明日菜は幼い頃に父親と死別しており、現在は看護師の母親と二人で暮らしている。『言の葉の庭』の孝雄には、恋に奔放な母親がいるが、父親は不在である。『君の名は。』の瀧も父親と二人で暮らしているようだし、三葉の母親はすでに亡くなっている。三葉の場合は、父親も家を出ており、祖母と妹の四葉と三人で生活している。
「孤独」ゆえに生まれる引力
家族の有無にかかわらず、新海作品の登場人物たちは「精神的な孤児」である。現状に漠然とした不安を抱え、ここではないどこか別の場所を夢見て生きている。未熟さや幼さ、あるいは脆さを感じさせると同時に、どこか大人びてもいる。そのアンバランスさが新海作品の「精神的な孤児」たちを特徴づけているのである。
彼/彼女たちは、自分のなかにどうしようもない欠落を感じている。その穴を埋めるようにして、自分と同じような孤独を知っている異性を求める。『ほしのこえ』の昇は美加子との関係について「僕たちは中学の頃からずっとたぶんお互いだけを見てた」と言い、『秒速5センチメートル』の貴樹は明里との関係について「僕と明里は精神的にどこかよく似ていたと思う」と述べている。『星を追う子ども』の明日菜は、運命的な出会いを果たしたシュンとの再会を叶えるために地下世界への旅に出る。「カタワレ」をテーマのひとつにしていた『君の名は。』は欠落感を抱えた二人がもっとも劇的に結びついたケースと言っていいだろう。映画の序盤には三葉が鳥居の下で「もうこんな町いやや! こんな人生いやや!」と泣きながら絶叫するシーンがあるが、コメディめいた外観とは裏腹に、その叫びは彼女の切実な祈りを乗せたものなのである【図1】。
新海作品の「精神的な孤児」たちは、総じて早熟であり、どこか達観したように見える。『秒速5センチメートル』の貴樹はその最たる存在だろう。その貴樹の孤高さは、クラスメートの花苗が密かに抱いていた彼への恋心を断念させるほどのものだった。
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