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荻上直子『かもめ食堂』が肯定する人間の欲望――それぞれの思い出を抱えて、人々は世界の終わりを生きる

『かもめ食堂』が描く人間の欲望

 マサコから、どうしてフィンランドで店をやっているのかを問われたサチエは「かっこいい男性と知り合いたくて……なーんて」と、例によってはぐらかすような答え方をしている。もちろん、これは嘘だろう。彼女はかっこいい男性と知り合いたいと思うようなタイプの女性には見えない(偏見かもしれないが)。しかし、嘘には一抹の真実が宿るものである。試しに彼女が言っている内容を少しズラしてみよう。

「男性」を「女性」に、「かっこいい」を「かわいい」に変えてみる。 じっさい、サチエはそうした大柄な女性 を「かわいい」と思って魅力を感じているようである(そうでなかった母親の死に際しては猫が死んだときほど泣けなかったのだから)。とはいえ、生身の人間に面と向かって「大柄なあなたのことが好きなんだ」とは言いづらい。しかし、それでも生理的な好き嫌いの感覚は、理性でコントロールし切れるものではない。それはどうしようもない人間のさがである。

 映画は「抗いがたい人間の性」を描いてきたメディアである。『かもめ食堂』もまた、そうした人間の性、人間の欲望を描いている。ヘルシンキの美しい景観、室内インテリアやマリメッコの服といったおしゃれ要素によって巧妙に隠蔽されているが、この作品の本質は人間の欲望を肯定的に描いている点にあり、それが多くの観客を惹きつけた主たる要因ではないかと僕は思う。

 登場するフィンランド人たちも、決して好ましい印象だけを残すわけではない。サチエが食堂を開く前に同じ場所に店を出していた男マッティ(マルック・ペルトラ)は、彼女たちの留守を狙ってこっそり忍び込むという泥棒まがいのことをし、置いたままにしてあった自分のコーヒーメーカーを持ち出そうとする。夫が突然家を出ていって途方に暮れるリーサ(タリア・マルクス)は、夫を呼び戻すために藁人形を使った日本式の呪いに手を染める。よくも悪くも自分の欲望に忠実な人たちなのである。その姿勢は劇中の日本人女性たちにも共通する。

 サチエがフィンランドに食堂をオープンした理由を僕なりに要約すれば「日本で感じていた生きづらさから逃れ、自分好みの人々を餌づけして手なずけるため」ということになる。意地の悪い言い方をしているように感じられるかもしれないが、むしろ好意的に捉えている。だからこそ、僕はこの映画が好きなのである。

サチエが日本で感じていたであろう生きづらさが具体的に描写されるわけではない。それもこの映画の美点だと思う。全体に抽象化された世界が描かれており(開店から一ヶ月も客がこない食堂の経営がどうして成立しているのか等)、そのことに対する批判の声も聞かれる。しかし、逆に言えば適度に余白が設けられていることで、観客はそこに自分の境遇を投影することができる。

「いま・ここ」にあるしがらみを脱してどこか遠いところへ行きたい。そう思ったことのある人は少なくないと思う(僕は締切に追われているときなどにそう思う。つまりしょっちゅうである)。それはまた、人が映画に期待する役割のひとつでもあるだろう。ミドリやマサコは、ほとんど衝動的にフィンランドにやってきた。彼女たちを突き動かした理由が詳細に語られることはない。マサコの場合は、長年にわたる親の介護が終わったことが背景のひとつとして仄めかされてはいる。でも、おそらくそれだけではない。リーサに藁人形の呪いのことを伝えたマサコは、かつてそれを実行したことがあるかのようなそぶりを見せる【図4】。しかし、どのようなシチュエーションで、誰を呪おうとしたのかは謎のままである(他人の内面に深く立ち入らない慎み深さもまた彼女たちの魅力だ)。

【図4】サチエから「普通ないでしょ? ねぇ?」と話を振られて顔を背けるマサコ。
【図4】サチエから「普通ないでしょ? ねぇ?」と話を振られて顔を背けるマサコ。

 じっさいに藁人形を用意して釘を打ち込んだことがあるかどうかはさておき、誰しもこれまでの人生で呪いたくなった人間の一人や二人はいるだろうと思う。こうして彼女たちを文字通り「遠いところ」へ駆り立てた曖昧な欲望は、個々の観客によって補完され、感情移入を誘うのである。

 サチエはマサコに対して「やりたくないことはやらないだけなんです」とはっきり言っている。これはサチエの本心からの言葉のように感じられる。ミドリと「世界が終わるとしたら、その前に何をしたいか」を話題にした際には「好きな人だけを呼んでおいしいものを食べたい」とも言っている。

思い出を抱えて、世界の終わりを生きる

 好きな人たちと一緒に食堂で働き、好きなお客さんに食事を提供しているサチエは、すでに世界の終わりを生きているように思う。サチエは、ミドリがメニュー表に描いたイラストを見て「店の感じとも合ってる」と好意的に受け止めていた。しかし、客足の少なさを心配したミドリから「観光ガイドに店の情報を載せたらどうか」と提案された際には「店の匂いと違うと思います」と言って拒否している。サチエにとって、日本人観光客は招かれざる客であり、それに頼るくらいなら店を畳んだ方がマシなのである。自分の好きを我慢するくらいなら店をやめる。彼女が世界の終わりを生きているのだとすれば、この清々しいまでの開き直りも納得できる。

 先ほど述べたように、サチエはおにぎりに並々ならぬこだわりを持っている【図5】。ミドリが提案した現地の食材を使った創作おにぎりも、(一応は試すだけ試して)却下した。なぜ彼女がそこまでおにぎりを重視しているかの答えは、映画の終盤に描かれている。

【図5】おにぎりのことを日本のソウルフードだと説明するサチエ。基本的にシャケ、梅干し、おかかの三種類しか認めていない。
【図5】おにぎりのことを日本のソウルフードだと説明するサチエ。基本的にシャケ、梅干し、おかかの三種類しか認めていない。
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伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。

Twitter @hitoh21

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