2019.12.30
ご近所に誕生した、最近贔屓の日本料理店【日本料理 吟】~最終回
……そしてご愛読いただきました本連載も今回で最終回。鎌倉育ちのりり子さんだから知る店、知る味、思い出の数々……珠玉のエッセイたちは、書き下ろしを加えて2020年4月に書籍として刊行予定です。どうぞお楽しみに!
ご近所に誕生した、最近贔屓の日本料理店
近所に、山ひとつを庭にした邸宅があった。
山のてっぺんに立つ家の主は循環風呂で財を成した方で、山の中腹にはゆったりとした露天風呂もあった。庭には滝が流れていた。露天風呂を沸かすとうちにも連絡をくださり、私と母はタオルを持って出掛けた。流水の音を聞きながら、森の中の露天風呂を楽しんだ。
その後、事情があって邸宅を手放し、一家で東京に引っ越された。
邸宅は広さゆえか、なかなか買い手が決まらなかった。黒塗りのハイヤーや真っ白なメルセデスが乗り付けられたり、タレントが別荘を買うといった主旨のテレビ番組のロケがあったりした。所有の不動産屋が変わったのか、入り口に物々しい柵が建てられた時期もあった。どんな人が買うのかと不安になった。
ある年の春。インターフォンが鳴って、画面にはお見かけしたことのある顔が映った。
「近所に越してきましたので、ご挨拶を」
よくテレビや雑誌で見かけるドクターの南雲先生だった。あの邸宅を別荘として買われたという。度々いらっしゃるようで、週末に稲村ヶ崎駅前でばったりお会いすることもあった。立ち話で、海近く特有の塩害と山ならではのカビが大変だとこぼされていた。子供の頃から住んでいる私にとっては標準装備だけれど、鎌倉に越してきた人はたいてい、最初に塩害とカビに悩まされる。
その年の夏、またインターフォンが鳴って、画面には南雲先生が映った。居間でお茶を入れながら、私は内心、早々に鎌倉を引き上げてしまうのだろうかと思った。ところが、
「ご報告がありまして。あの家で日本料理の店をやることになりました」
急須を落としそうになるほど、びっくりした。
月に一度来るぐらいではせっかくの家をダメにしてしまう、それなら、と店を始めることにしたそうだ。確かに、家は使わないとヘタっていくけれども、それにしても、お医者様がいきなり飲食店とは思い切ったものだ。
南雲先生の専門は乳癌で、乳房再建の名手として知られている。食事による健康法の本もたくさん出されていて、ファンも多い。先生の驚異的な若々しさの秘訣も食事法にあるんだとか。母は六十代の先生をずっと三十そこそこの若者だと思っていた。その食事法に乗っ取った日本料理の店だという。
それだけでなく、「これぞ日本料理という究極のお店にしたい」とのことだった。
観光地の鎌倉とはいえ、この辺りはお寺もオーシャンビューもない住宅街である。正直なところ、本当に実現するのかしらん?と半信半疑だったが、約半年後の春、晴れて開店のご案内をいただいた。
それが稲村ヶ崎の「日本料理 吟」である。
料理人の佐々塚雅也さんは、南雲先生が名古屋で行きつけだった店でスカウトした。「海外の人にこれが日本料理と胸を張っていえるものを鎌倉で出したい。食材の予算に糸目をつけない」といって口説いたそうだ。
言葉通り、ここには日本全国の選りすぐりの食材が集まってくる。長崎は五島列島のクエ、越後松葉蟹、淡路島の鱧、愛媛の鯛などなど。魚に詳しい人ならたいてい知っている「大森流通式」の大森さんから直接仕入れることもある。大森式とは、魚を悩殺させて、神経を抜き、放血させる処理の方法。石巻の大森さんはその発案者であり、魚の種類や大きさ、時期、発注主である料理人の好みに合わせて処理の仕方を調節する、量より質の漁師だ。魚のケースには「船上放血神経〆」と書かれたステッカーが貼ってあり、日付&時間も記されている。
最初に吟に行った時、船上放血神経〆をした鰆を蕗味噌で食べた。生々しさに驚いた。その日のお造りは昆布締めにした平目。醤油ではなく、パンプキンシードオイルと肝を溶いたソースで味わった。どちらも素材の味わいが舌に染みた。減塩は健康のためというより、味覚のためなのだと思った。
牛なら信州か宮崎、野菜は京野菜と三浦野菜。ここに来ると、改めて日本の食材の幅広さに感嘆する。先日は、有明海の新海苔の天ぷらに北海道の雲丹が乗って供された。お互いが引き立てあっていた。
最後の締めは季節の具材を使った発芽玄米の炊き込みご飯。南雲先生の食事法に沿って精製した白米は使わない。
佐々塚さんがすごいのは、こうした食材でも決してやり過ぎないことだ。食材に敬意があるからだと思う。最近、FOODIE受けを狙って高級食材に高級食材を合わせるのが流行っているけれど、和牛やトロの薬味に雲丹やキャビアは必要ない。ああいった「ドヤ感」のなさを鎌倉らしい個性というのは地元びいき過ぎるだろうか。
夜はコース一万五千円のみ。鎌倉ではトップクラスのお値段で、それだけの価値はある。まずは昼のお弁当で、という人も少なくないが、もったいない。「日本料理 吟」を知ろうと思うなら、ぜひ夜のコースを体験するべきだ。
●日本料理 吟
住所:神奈川県鎌倉市稲村ガ崎4-1-11
電話:0467-84-7236
営業:ランチ 11:30〜14:00(LO)、夜18:00~21:00(LO)
定休日:水曜・第1火曜
記事元:ヒトサラマガジン https://magazine.hitosara.com/article/1884/