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京大でも別格の頭脳を持ち学問の面白さを教えてくれた中村さん【学歴狂の詩 第15回】

稀代のカルト作家として人気を集める佐川恭一さんによる、初のノンフィクション連載。
人はなぜ学歴に狂うのか──受験の深淵を覗き込む衝撃の実話です。

前回は、「二十時間勉強法」で京大入試を突破した男を紹介しました。
今回は、京都大学のゼミで知り合った女性についてのエピソードです。

また、各話のイラストは、「別冊マーガレット」で男子校コメディ『かしこい男は恋しかしない』連載中の凹沢みなみ先生によるものです!
お二人のコラボレーションもお楽しみください。
イラスト/凹沢みなみ
イラスト/凹沢みなみ

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大学という場は他人との頭脳の差がわかりにくい

 この連載の第二回で、高校時代に出会った天才・濱慎平を紹介させてもらったが、ならばそうした進学校の上澄みが集まるはずの京都大学には濱のような天才はいたのか? という疑問を持たれている方もいるかもしれないので、今回は前回に引き続き大学を舞台としてそれにお答えしていこうと思う。

 ただ、学歴を語るYouTuberらが誰かの頭脳の凄まじさを紹介するとき、大抵は大学での活躍ではなく小中高の成績をもって「天才」とか「悪魔」とか言っているということにお気づきの方も多いだろう。それは無理もないことで、「浜学園で飛び級していた」とか「灘中に首席で入った」とか「東大模試で一位を取った」とか、そういうわかりやすい指標が、大学に入った途端になくなってしまうのである。大学で点数の話なんてするのはせいぜいTOEICやらTOEFLやらを受けたときぐらいで、どの単位を何点で取ったかなんて気にしている人間はほとんどいなかったし、私も気にしたことはなかった。つまり、人と点数を比べる機会がなくなるとともに、誰が優秀なのかが見えづらくなってくるのである。

 少なくとも当時の京大文学部では、「ギリ単位取れたww」「落としたwwうぇww」「留年回避ww」「語学再履ワロタww」みたいな会話はすれど、「何点で通った?」みたいなことまで聞いてくるやつはほぼいなかった。今の京大はどうなっているのか知らないが、後から就活用に成績表を取ってみるとそれぞれの単位に関して「優」「良」「可」とあっさり書かれているのだが、リアルタイムでもらった成績表には数字で点数が出ていたので、一応同じ講義を取っている人間と勝負できる状態にはあった。しかし、少なくとも私や私の周囲にいた人たちは――たった一点を争う熾烈な受験とは違い――単位が取れたかどうか、つまり六十点を超えたかどうかだけを問題にしていた。就活のときにたまに聞こえてくるようになった「GPA」という成績評価の概念も、知ってはいたが気にしている人を見たことはなかった。この連載の第七八回で書いたように、就活でもっとも重要だったのはどう見ても大学名であり、学部でもGPAでもなかったからである。

 さて、そんなわけで大学という場は他人との頭脳の差が受験空間よりもわかりにくい仕組みになっているわけだが、その中でも突出して「こ、こいつ……」と思わされた学生が一人だけいる。それが、私が三回生になった時、一緒の社会学専修に入った中村さんである。同じ専修になると「社会学特殊講義」みたいな授業をたくさん一緒に取ることになるので、みんなの発表などを嫌でも聞くことになり、誰が賢くて誰がアホかということがなんとなく――やる気がないだけのやつもいるので一概には言えないのだが――掴めるようにはなってくる。私は受験でバーンアウトして学問に何の興味もなかった側で、発表も下手くそだったので誰からも絶対にアホだと思われていただろうし、実際にアホだった。やる気が出ない上に実際にアホであるというのは悲しいもので、なんとか「やる気がないだけで頭はいいんすよ」という風に見られようと少しはがんばってみるのだが、やはりそんな化けの皮は四、五分も議論すればあっさり剥がれてしまう。

 そういう状況で、大体私や前回紹介した野々宮、その他R星やT大寺出身者などによくいた(気がする)バーンアウト組は高まっていく講義の専門性に置き去りにされていたわけだが、中村さんの発表だけは格が違った。なんと、まったくやる気のない私たちをもその深い理解力と魅力的な語り口とで巻き込み、こう言うとあれなのだが、教授たちよりもよく内容をわからせてくれたのである。大学の三回生にもなれば、もう学問に興味のない、就職の道確定の人間にやる気を出させるのは難しいと教授陣もあきらめている節があり、難解なところに入ってくると正直私たちに内容を理解させようという感じも薄くなることが多かったのだが、中村さんは心から自分の発表を楽しみつつ、さらに聞いている私たちにもちゃんと理解してもらいたいという気持ちが全面に出ているため、こちらも何か自然とウキウキしてきて話を聞き、議論にも参加したくなってきてしまうのである。

 私が特に覚えているのは、社会学の英語の分厚い本を学生が順番に翻訳していく講義で、中村さんがゲオルク・ジンメルという社会学者について発表したときのことだった。ジンメルは社会学黎明期の学者で「形式社会学」と呼ばれるものを提唱し、社会を人間と人間の「心的相互作用」の織りなす織物として表現した、みたいな話だったのだが、パッパラパーの私にはそんな話はどうでもいいことだった。しかし、中村さんはひととおり英語を訳し終えた後、「まあつまりですね……」と言って、いつもは教授らが使うホワイトボードにブワーっとたくさんの人間が手をつないでいる絵を描き出した。詳しい内容までは忘れてしまったのだが、「〇〇とか○○みたいな学者はこの人間そのものの内容に着目した研究をしてるわけですが、ジンメルが重視してるのはここの部分なんですね」と言って、人間同士がつないでいる手の部分にグリグリと丸を付け出した。「で、この手のつなぎ方っていろいろあるじゃないですか? ふつうに握手するみたいにつなぐとか、恋人つなぎみたいにぎゅーっとするとか、指だけつまんでるとか。それがジンメルの言っている『形式』で――」と中村さんはバリバリ解説を始め、教授も「そうそう」という感じで頷いていて、私たちも「はえー」となっていた。私は京都大学でめちゃくちゃ偉い先生の授業もたくさん受けていたわけだが、この中村さんがバリバリ解説を始めた回が一番印象に残っている。専修の「特殊講義」という少人数の講義だったということもあるかもしれないが、その時はやる気のある人からない人まで、だんだん「はえー」となっていく大きな波のような力をはっきり感じたのだ。

 そうして私たちを学問に引き寄せてくれた中村さんだったが、終盤になってくるとやはり中村さんと私たちのレベルが違いすぎて、中村さんが「そういえば〇〇の新刊がアメリカで出たんで原著取り寄せて読んだんですけど~」みたいなことを言い出し、教授が「あれ読んじゃったの!? もう全部!?」とめっちゃ喜び出すみたいなことになり、結局最終的には置いていかれてしまったのだが、私が京都大学で一番ヤバかった人間は誰かと聞かれれば中村さんを挙げるだろうし、同じ代の社会学専修の人たちも間違いなく中村さんを挙げるだろう。

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佐川恭一

さがわ・きょういち
滋賀県出身、京都大学文学部卒業。2012年『終わりなき不在』でデビュー。2019年『踊る阿呆』で第2回阿波しらさぎ文学賞受賞。著書に『無能男』『ダムヤーク』『舞踏会』『シン・サークルクラッシャー麻紀』『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』など。
X(旧Twitter) @kyoichi_sagawa

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