2024.7.18
「二十時間勉強法」で京大入試も就活も突破した極限坊主・野々宮【学歴狂の詩 第14回】
人はなぜ学歴に狂うのか──受験の深淵を覗き込む衝撃の実話です。
前回は、東大京大医学部志望ばかりの超進学校で「神戸大学志望」を貫いた男を紹介しました。
今回は、極限坊主・野々宮についてのエピソードです。
また、各話のイラストは、「別冊マーガレット」で男子校コメディ『かしこい男は恋しかしない』連載中の凹沢みなみ先生によるものです!
お二人のコラボレーションもお楽しみください。
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京大生は「学歴狂」の濃度が低い
これまでの連載では高校時代の同級生たちを中心に紹介してきたが、「そういえば京都大学はどんな感じだったの?」と思われている読者の方もいるだろう。私が京都大学を目指した理由は実家から通える距離にあるということと偏差値が高いという二点のみだったが、奇人変人が多そうとか自由で面白そうとか森見登美彦的世界観に憧れてとかこんな研究がしたくてとか〇〇先生がいるからとか、校風ややりたいことを考えて志望する真面目な受験生もいるかもしれない。そんな方に参考にしてもらいたいという意味もこめて、今回は少し大学時代の友人にも触れてみたいと思う。
そもそも、なぜ私が京大の友人知人を取り上げていないかというと――みなさんの想像とは異なるかもしれないが――「学歴狂」の濃度が低いから、という理由がもっとも大きい。すでに京大に合格しているという余裕があるのでわざわざ受験の話をしない、という面もあるのだろうが、それ以上に「ナチュラルに勉強ができまくったので部活とかやりながら現役で受かりました」みたいな奴が多いのである。もしこの連載の読者の中に京大に進学する方がいるなら、とりあえず京大生の間では受験の話が「テッパン」ではないということを知っておいてもらいたい。「あの模試で成績優秀者の冊子に載ってさー」とか「合格最低点プラス何十点で受かっててさー」とか、そんな意味不明の自慢話をしてはならない。そこはあなたの地元の高校ではなく、京都大学なのである。成績優秀者の冊子掲載どころか一位を取った者もいれば、合格最低点から百点以上の余裕を持って合格した者もいるのだ。
それは考えるまでもなく当然のことなのだが、この身も蓋もない事実は当初、某R高出身の私に大きな衝撃を与えた。私の視野が狭すぎただけと言えばそれまでなのだが、私は京大というのはてっきり全員死ぬほど勉強して、入りたくて入りたくて仕方なくて入ってきた奴らの集まりだと思い込んでいたのだ。しかし、実態はそうではなかった。普通に勉強していたら行けそうだったから受けただけ、という層が想像以上に多かったのである。また、社会科が苦手で東大を目指せなかった(東大は二次試験で社会を二科目受けなければならないが、京大は一科目で済む。ただし数学が極端に苦手な場合、京大は東大のように数学を社会で薄められない。そのへんはしっかり自分の特性を見極めるべきである)とか、東大落ち後期組(※後期は二〇〇七年廃止)とか、そんなに喜んでいない系の学生もしばしば見かけた。
なんだか思っていたのと違う――そんな困惑の中、私は文学部の同じクラスに自分にかなり似たタイプの受験狂がいるのを見つけた。その男の名は野々宮、九州の有名スパルタ進学校出身で一浪だった。関西に住んでいなかったせいか私よりはるかに強烈に京大に憧れていたようで、「絶対に鴨川をチャリで渡って通学したい」というアホな理由で、わざわざ百万遍の近くでなく同志社に近い今出川に部屋を借りていた。しかも織田裕二の超絶ファンで、『踊る大捜査線』の青島と同じコートを季節外れの時期にもよく着ており、こいつは本物のアホなのだと私は思っていた。
そんな彼はかなり大きなお寺の息子でおそろしいほどの金持ちだったため、借りている部屋もかなり広く、しかも人とのあいだに壁をまったく作らない人間性も持ち合わせていたため、後にはみんながそこに集まってゲームをしまくったり酒を飲みまくったりするようになっていった。
私と彼はすぐに意気投合した、というより、彼はものすごいレベルの愛されイジられキャラで誰とでもすぐ仲良くなれる人間だったため、スーパー陰キャの私ですら自然に彼をイジってしまうという感じだった。最初に強烈な印象を受けたのが、文学部のクラス名簿を作ることになって、そこに一人一人が自己紹介カードを書いたものが掲載され、野々宮は特技の欄に「麻雀(つよいよ!)」と書いていた。それならまだギリギリ普通だが、おそろしいことに麻雀の「雀」の字がすべて「省」になっていたのである。私たちはそれを見て爆笑し、「お前よく大学受かったな」とイジりまくっていた。
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彼はいろんな大学が集まるテニスサークルでも「高学歴バカ」のようなポジションになり、「高学歴コール」を受けて酒を一気飲みしまくっていた。ちなみに「高学歴コール」とは、「高学歴!高学歴!」と煽られながら「いやいやそんなこと、あるけどね!」と言って酒を一気飲みするというものである。文字でその面白さを伝えることは難しいのだが、彼がやるとそのコミカルなキャラクターと単純に酒を飲む量のヤバさで、同志社から京都造形大学(現・京都芸術大学)の学生まで腹を抱えて笑っていた。なぜそんなことがわかるかと言えば、野々宮の社交性がすごすぎるあまり、無所属の私をそのテニサーの飲み会に普通に呼んでくれていたからである。彼は陰キャ陽キャ両用のとてつもなく懐の深い人間で、私のようなタイプの人間との陰気な会話を(おそらく)楽しみつつも、後にそのテニスサークルの部長にまで上り詰めていた。
私たちは三回生になる時に専攻を選ばされたが、私と野々宮は二人とも文学部の「社会学専修」というコースに入った。正直当時の私はやりたいことも学びたいこともなく、ただ酒を飲んで小説を読みまくっているだけの無気力人間であり、「社会学ならまあ何やってもアリかな。宮台真司とか楽しそうに生きてるし」というクソみたいな動機でコースを選んだ。そしてそれは野々宮も一緒だった。彼もまた受験でバーンアウトした、学問に何の興味も持てない人間だったのである。
そうして社会学専修に入った時、先輩との交流会みたいなものがあって、そこにいたUという先輩を見た瞬間、私と野々宮は顔を見合わせた。なんとそれは、おそらく京大志望者しか読まないが毎年出版されている、『私の京大合格作戦』という本に受験体験記が載っていたマッシュヘアの先輩だったのである。私も野々宮も受験狂だったので『私の京大合格作戦』に非常に詳しく、そこに載っている人のことをほとんど芸能人のように思っていた。いや、むしろそのへんの芸能人よりも上だと思っていた。私が入った年にはちょうどロザンの宇治原先輩が卒業したが、宇治原先輩はテレビには出ているものの『私の京大合格作戦』に載っていないので、私と野々宮の脳内ではU先輩のほうが格上だった。周りの学生たちが「社会学専修ではこんなことやってるよ」という先輩の話を真剣に聞いている中で、私と野々宮は社会学そっちのけでU先輩に「京大合格作戦に載ってましたよね!?」と突撃し、ほとんどの時間を受験談義で盛り上がって過ごした。U先輩もその本に原稿を送るぐらいなので、私たちと同類の受験狂だったのだ。
そんな調子で、いわゆる「人間力」は高いものの全体的にやる気のなかった野々宮だったが、就活が始まった瞬間にはっきりギアが変わった。「京大ではみんなダルそうに過ごしていたのに就活が始まると雰囲気が一変した」と私はいろんなところで語っているが、その最大の象徴が野々宮だった。彼はマスコミ系を受けまくりたいということで何やらデカい就職予備校に通い出し、TOEICの点数も上げておきたいと言ってバキバキに勉強し始めたのである。私はその豹変ぶりに焦った。焦りまくった。当時就活にもっとも必要だと言われていた「人間力」に自信のなかった私は、とりあえずTOEICの点数を上げておいて損はないと思い、野々宮と一緒に勉強することにした。だが、その時になぜこの男が京大に入れたのかを思い知らされることになった。野々宮は一度勉強すると決めると、誇張抜きで倒れるまでやるのである。私も長時間勉強には耐性のある方だったが、受験時代でも十時間を超えるとキツくなるなという感じだった。しかし野々宮は、本当に二十時間耐久勉強マラソンみたいな極限の努力をやってのけるのだ。何度も野々宮と一緒に勉強するなかで、私が彼と同じだけの時間走り切れたことはついに一度もなかった。
ただ、野々宮の二十時間勉強ははっきり言って効率が悪かったと思う。彼はそうやってほとんど気絶するまで勉強するわけだが、その後反動でめちゃくちゃ寝てしまうのである。それで寝過ごして大学に来ない、というようなことも頻繁にあり、そのせいで落とした単位も数知れなかった。自分のやり方があまり良くないということは野々宮自身もわかっているはずだったが、彼はそういう風に勉強することしかできないようだった。極限まで自分を追い込んで気絶し、身体が回復するまで眠る、その繰り返しで少しずつ前進していくという不器用なスタイルが彼の勉強法であり、そして生き様そのものだったのである。結局、最終的にTOEICの点数は息切れした私と大して変わらず、七百点台の前半だった。
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