2025.8.13
母の無水鍋
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。
イラスト/佐々木一澄
ちゃぶ台ぐるぐる 第20回 母の無水鍋

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朝、起きたときと、昼ご飯を食べているときにテレビを観るのだが、どうしてこんなに食べ物のコーナーが多いのだろうと不思議になる。こんなに毎回、新しいスイーツやお店を紹介していて、いつネタがなくなるのかと思っていたら、なくなるどころか逆に増えていたりする。テレビで紹介された商品は、何倍、何十倍もの売り上げになるそうだ。店のほうも客が増え、待ち時間三時間、五時間といった状況になってしまったのに違いない。
私が子どもの頃に、そういったことがあったかなあと思い出してみるけれど、思いつかなかった。生活情報の番組がほとんどなかったし、そういった番組で流されるのは、食べ物であっても手作りに関するものだったような気がする。母親は料理好きで、様々な料理に積極的にチャレンジしていて、父親と私と弟はいつも感想を述べる係だった。彼女は本は読まなかったが、付録本つきの婦人雑誌は何種類も駅前の書店から配達してもらっていて、それが届く日はどこか楽しそうだった。小学校に通う前から私もそれらの雑誌を読んでいた。
当時の婦人雑誌の付録本は充実していて、今の料理、洋裁、和裁、手芸本などの一冊分のボリュームがあった。私も編物の付録本で編み目記号を覚えた。編物以外はそれほど興味がなかったけれど、読むのは好きだった。その後、文化出版局の「ミセス」が発売されると、母親がとても気に入って、何十年も買い続けていた。それまでの婦人雑誌と違い、実用的というより、少し上のランクの生活をのぞかせてくれた編集内容だからだと思う。料理、手芸などの気に入ったページはすべてスクラップしていたので、実家を建てたとき彼女が賃貸住宅から引っ越す前に、そのスクラップが欲しいといったら、
「あら、全部捨てちゃったわ」
とあっけらかんといわれてがっかりした。雑誌を見て母親が作ったピカタとか、色鮮やかなサラダは何度も食卓に並んだ記憶がある。
彼女は近所の集会所で催された、無水鍋の講習会にも足を運び、早速、購入して、
「ほら、こんなものがある」
と私に自慢した。講習会は町内の掲示板か口コミで知ったのだと思う。文化鍋はすでにうちにあったが、蓋が山型に傾斜があるそれと違って、蓋が真っ平らの鍋だった。母親がまるで自分が開発したかのように、これは蓋と本体を逆に使うこともでき、そうするとケーキも焼けるのだというのを聞いた私は、俄然、興味がわいて、
「ええっ? 本当に作れるの」
と疑うと、彼女は、
「できる。今日、無水鍋の料理の先生が作って見せてくれたもの。でもまだ慣れていないから、焼きリンゴを作ってみようと思うの」
と張り切っていた。
私としてはケーキでも焼きリンゴでも、おいしいおやつが食べられればどっちでもいいので、楽しみに待っていた。リンゴをへたから芯にむかってくり抜き、そこにバターを落として、鍋に入れて放っておけばよいのだと教えてくれた。ふだんは使わないバターも買ってあった。私は、
「ふーん」
と返事をして、できあがるのを待っていたら、しばらくしておいしそうな匂いが漂ってきた。すると母親が、
「いい匂いがするでしょう」
と自慢した。家で仕事をしていた父親も、
「おいしそうな匂いがするな」
と笑っていた。いつもは夫婦仲が最悪の両親だったが、たまにこういうときもあったのである。
無水鍋で作った焼きリンゴはとてもおいしかった。バリエーションでレーズンを散らしたり、アイスクリームを添えたりして、おいしく食べた記憶がある。もちろんカレーやシチューなどの煮込み料理も作れるので、無水鍋は一年中大活躍だった。このような家庭内の浮き立つ食の小イベントはたまにあったけれど、ふだんの食事は質素なものだった。毎日、ほとんど同じといってもよかった。文句をいわず、みんな食べていたと思う。それでも○○さんの家ではこういうものを食べているらしいと話すと、必ず返ってくるのが、
「人は人、うちはうち」
だった。子どもが人の家をうらやむようなことをいったとき、親としてはとても使いやすい言葉だったのかもしれないが、それで納得させられていた。
まだ小学生の私に母親は、
「嫁にいくときには、無水鍋も持たせてあげる」
といっていたので、よほど気に入っていたらしい。しかし私は嫁にもいかなかったし、ひとり暮らしをはじめた初期の頃に、無水鍋を買ってみた記憶はあるが、使いこなせずに家族がいる知り合いにあげた。それよりも圧力鍋のほうが、使い勝手がよかった。
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