2025.8.8
おしゃべりしながら編んで縫う。手芸が震災後の心のケアになる@能登半島・珠洲市「本町ステーション」【前編】
これらには、視覚・聴覚障害のある人とない人がともに楽しむ鑑賞会や、認知症のある高齢者のための鑑賞プログラムなど、さまざまな形があります。
また、現在はアーティストがケアにまつわる社会課題にコミットするアートプロジェクトも増えつつあります。
アートとケアはどんな協働ができるか、アートは人々に何をもたらすのか。
あるいはケアの中で生まれるクリエイティビティについてーー。
高齢の母を自宅で介護する筆者が、多様なプロジェクトの取材や関係者インタビューを通してケアとアートの可能性を考察します。
2024年1月1日の能登半島地震発生の被害から、未だ復興の遅れも指摘されている石川県珠洲市。
震災の影響によって、かつての地域コミュニティの喪失も懸案されています。
今回は、震災後に地元の珠洲市に誰でも立ち寄ることができる「居場所」を作った松田咲香さん、そこで「手芸部」を立ち上げたアーティスト宮田明日鹿さんの取り組みを取材。
編み物、縫い物といった昔ながらの手仕事がもたらす心のケアについて考えます。
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アーティスト宮田明日鹿さんが珠洲市で立ち上げた「本町手芸部」
建物の外に並ぶ植木鉢。ゴーヤの緑のカーテンが黄色い花をつけている。その隣の窓には、「小さな上映会―一緒に楽しく映画を観ませんか」「写真やアルバムをあきらめないでください(被災写真の洗浄ボランティア)」といったチラシが貼られている。
ここは石川県珠洲市宝立町鵜飼地区にある「本町ステーション」だ。2024年1月1日の能登半島地震で大きな被害を受けた地域に、被災から3か月後の4月、地元の写真家、松田咲香さんによって開かれたコミュニティスペースである。
「ステーション」という名は、様々な人が行き交い、物語がたくさん生まれる「駅」に見立てて付けられた。もと燃料店(LPガス販売店)だった建物を手直しし、椅子やテーブル、本棚などを並べた。地域の人々が気軽に立ち寄れる“居場所”となっている。

松田さんの実家は、珠洲市の中心部、飯田町にある。松田さんが暮らしていた宝立町鵜飼の古民家を改装した住居兼スタジオは倒壊し、一部が津波に流された。震災前から約12年間にわたり能登を撮り続けていた写真データやカメラなども損失した。一部のデータはのちに復旧することができたという。金沢に避難した時期もあったが、やはり地元に戻りたいと思った。自身の経験から仮設住宅や、被害の跡が残る自宅で過ごす人々の心の傷を感じ、誰もが自由に集まれて、のんびり過ごせる場所が必要だと考えるようになったのだそうだ。
本町ステーションでは、音楽会やお話し会といったイベントも、企画者と参加者の創意工夫で自由に行うことができる。そのイベントの一つに、三重県鈴鹿市在住のアーティスト・宮田明日鹿さんが主宰する「本町手芸部」がある。

家庭用編み機や手芸の技法を用いて現代美術作品を制作する宮田さんは、近年、手芸文化を通してまちの人々とコミュニティを形成する「手芸部」プロジェクトを、名古屋市港区で最初に結成された「港まち手芸部」をはじめ各地で展開している。様々な世代が集まり、編み物や刺しゅう、織物といった手芸を自由に制作する活動だ。決まった教材やルールもなく、宮田さんが講師というわけでもない。思い思いに作り、参加者同士で教え合ったり、お喋りしたり。ふとした会話から人生について学び合い、家の中で女性が行うものとされている手芸を、家の外で行い、社会に発信する実践の場にもなる。
そうした経験から「どんなところにも手芸部のような場所が必要だ」という手応えを感じていた宮田さんは、能登半島地震の報道を見てすぐ、自分にも何かできることはないかと考えた。金沢で手芸部を立ち上げたときに能登半島を一周したこともある。港まち手芸部に能登半島にゆかりのある者がいて、手芸部でできることはないかと話し合った。つてを探すうちに、珠洲で活動している建築家から松田さんと本町ステーションにつながった。
震災後、生活の復旧に忙しい中では、手芸などといった細やかなもの作りは後回しになりがちでもある。けれど「日々手を動かしていた者にとっては、日常いつもしていたこと=手仕事を続けられれば、その方自身のケアにもつながるのではないかと思っていました」と宮田さんは語る。
2024年10月末に宮田さんが珠洲市を初めて訪れてから、本町手芸部は12月までは月に1回、2025年1月からは月に2回のペースで行われてきた。宮田さん自身は三重県鈴鹿市から車を6、7時間運転し、ほぼ1日がかりで珠洲に通っているため、約2か月に1回の訪問となる。道具や素材は現地に置いてあり、宮田さんがいない時にも参加者たちはいつでも活動可能になっている。
手を動かしながら、おしゃべりする時間の豊かさ
宮田さんから本町手芸部の様子を聞いていた筆者は、彼女の5回目の訪問となる7月、「本町手芸部」を取材した。のと里山空港から乗合タクシーで珠洲市へ向かう道すがら、能登半島地震か同年9月に発生した奥能登豪雨によるものか、土砂崩れの跡が見えた。復興工事のクレーン車、青いビニールシート、斜めになったままの電柱、更地に残る家屋の跡、黒く光る真新しい瓦の合間に、横倒しの家が見える。報道写真で見てずっと気がかりであった復興の遅れを実感した。
それでも「本町ステーション」のドアが開き、「こんにちは」と一人二人とやってくると明るい声に場が包まれていく。参加者たちは畑仕事や家事などの合間に自身の都合に合わせてやってきて、好きな場所に座り、家で作ったものを見せたり、続きを作り始めたり。

今回は、能登半島にゆかりのある「港まち手芸部」の参加者が、友人を連れて宮田さんに合流し、家に残っている布をたくさん箱に詰めて持ち込んでくれた。色合いのおしゃれな柄、絵本のような物語性のある柄。みな思い思いに折り重なった布を広げて、嬉しそうに好きな布を選び始めた。きれいな布に表情を輝かせながらも、「布をたくさんためていたけど、震災で全部ダメになってしまったからね」と笑みの合間に目を伏せる女性。自分で作った小物入れやバッグなどをはじめ、布や毛糸などの材料を震災で失った人は多いようだ。

奥のソファに若い女性がやってきて途中まで編んだ円座のモチーフを見せながら、ここはどう編むのかと親子以上に歳の離れた女性に質問する。世代の異なる人とも、手芸部で編み方のコツを教わりながら親しく話せるようになる。

手芸部にはどのような思いで参加しているのだろうか。何人かに理由を尋ねると、「じっとしているのが嫌いなのでいろいろ作りたくなる」「荒れた心を抑えるのにいい。完成したら嬉しくなって、なんで怒っていたか忘れるから」「作ったものを人にあげるのも嬉しい。喜んでもらえると前に進む原動力になる」といった答えが返ってきた。これまでに作ったものやその写真を見せてくれる人もいた。
