2019.1.13
田臥勇太にNBA挑戦を本気の目標にさせた大会と選手とは!?

世界ジュニア選抜で見たジェイ・ウィリアムスが目標になった。
目標を一つ先、そしてまた一つ先に。
階段を確実に踏みしめて上がっていくと、これからの目標がはっきりと見えてくる瞬間がある。
18歳の田臥勇太にもあった。能代工業を卒業したばかりの1999年3月。彼はアメリカのジュニア選抜と世界のジュニア選抜が対戦するナイキ・フープサミットで、世界ジュニア選抜のメンバーに選ばれた。
卒業後の進路は、アメリカの大学への留学が決まっていた。だが自分がどんな道を進んでいけばいいのか、まだ見えてきてはいなかった。
対戦相手は将来のNBAプレーヤーの卵たち。
マッチアップしたのが、のちにシカゴ・ブルズから全体2位でドラフト指名されるポイントガードのジェイ・ウィリアムスである。うまくて、凄くて、楽しんでいた。そのことが伝わってきた。心に突き刺さるほどの衝撃と刺激。そしてジェイそのものが、目標になった。
田臥は言う。
「もしあのとき(フープサミットに)出ていなかったら、目標の立て方は難しかったなって思います。対戦したアメリカの選手の進路先はデューク、カンザス、ミシガンなどバスケの名門大学ばかり。現実に、同年代の世界レベルというものを感じることができましたから」
田臥はハワイ大などNCAAディビジョンⅠからの誘いもあったなかで、ディビジョンⅡのBYUH(ブリガムヤング大ハワイ校)に進学を決める。ジェイが進んだデューク大の試合は必ずテレビでチェックするようになる。
目標は見えた。
しかしアメリカのバスケに身を投じたとはいっても、その前にやらなければならないことが山ほどあった。NCAAには学業で成績をクリアしておかないとプレーできないというルールがあったのだ。
「もちろん最初は大変でした。英語をしゃべれないし、聞き取れないし、友人もいないし、文化も違う。1年目は、ほぼ英語の勉強に費やして語学力を上げなければならなかった」
チームメイトと一緒に練習できないため、ウエイトトレーニングやフィジカルトレーニングに力を入れた。だが留学2年目は腰痛に悩まされて手術に踏み切り、NCAAデビューを飾ったのは3年目になってからになる。
水を得た魚のようだった。
全米各地に遠征し、ハイビスカスの模様が入ったユニフォームの「TABUSE」が躍動する。日本人がNCAAでプレーするそのトピックはニューヨークタイムスでも紹介された。ディビジョンⅠの大学も参加するトーナメントで準優勝するなど、充実した日々を送った。
「2年目にケガをしてバスケができない大変さはありました。それでもトレーナーをはじめ周りの人がいろいろと協力してくれてありがたかったし、3年目にようやく出られるようになってバスケがどれほど自分にとって大切なのかも分かった。ハワイでの日々は、すべてが僕にとっていい経験になりました」
(次ページに続く)