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二宮寿朗「1980年生まれ。戦い続けるアスリート」
不惑が間近に迫る年齢になりつつも、変わらず戦い続ける1980年生まれのアスリートたちの人生に、スポーツライター二宮寿朗氏が迫るこの連載。サッカー中村憲剛選手に続く、2人目のアスリートは日本人初のNBAプレーヤー、リンク栃木ブレックス所属のプロバスケットボール田臥勇太選手! 初回は、史上初の「9冠」を達成し、大フィーバーを巻き起こした高校時代までをお伝えしました。今回は高校卒業後から日本人初のNBAプレーヤーになる直前までの歩みについて。

田臥勇太にNBA挑戦を本気の目標にさせた大会と選手とは!?

彼の存在もあり、栃木ブレックスは地元を大いに盛り上げている。(撮影/熊谷貫)
彼の存在もあり、栃木ブレックスは地元を大いに盛り上げている。(撮影/熊谷貫)

世界ジュニア選抜で見たジェイ・ウィリアムスが目標になった。

目標を一つ先、そしてまた一つ先に。
階段を確実に踏みしめて上がっていくと、これからの目標がはっきりと見えてくる瞬間がある。

18歳の田臥勇太にもあった。能代工業を卒業したばかりの1999年3月。彼はアメリカのジュニア選抜と世界のジュニア選抜が対戦するナイキ・フープサミットで、世界ジュニア選抜のメンバーに選ばれた。
卒業後の進路は、アメリカの大学への留学が決まっていた。だが自分がどんな道を進んでいけばいいのか、まだ見えてきてはいなかった。

対戦相手は将来のNBAプレーヤーの卵たち。
マッチアップしたのが、のちにシカゴ・ブルズから全体2位でドラフト指名されるポイントガードのジェイ・ウィリアムスである。うまくて、凄くて、楽しんでいた。そのことが伝わってきた。心に突き刺さるほどの衝撃と刺激。そしてジェイそのものが、目標になった。

田臥は言う。

「もしあのとき(フープサミットに)出ていなかったら、目標の立て方は難しかったなって思います。対戦したアメリカの選手の進路先はデューク、カンザス、ミシガンなどバスケの名門大学ばかり。現実に、同年代の世界レベルというものを感じることができましたから」

田臥はハワイ大などNCAAディビジョンⅠからの誘いもあったなかで、ディビジョンⅡのBYUH(ブリガムヤング大ハワイ校)に進学を決める。ジェイが進んだデューク大の試合は必ずテレビでチェックするようになる。

目標は見えた。
しかしアメリカのバスケに身を投じたとはいっても、その前にやらなければならないことが山ほどあった。NCAAには学業で成績をクリアしておかないとプレーできないというルールがあったのだ。

「もちろん最初は大変でした。英語をしゃべれないし、聞き取れないし、友人もいないし、文化も違う。1年目は、ほぼ英語の勉強に費やして語学力を上げなければならなかった」

チームメイトと一緒に練習できないため、ウエイトトレーニングやフィジカルトレーニングに力を入れた。だが留学2年目は腰痛に悩まされて手術に踏み切り、NCAAデビューを飾ったのは3年目になってからになる。

水を得た魚のようだった。

全米各地に遠征し、ハイビスカスの模様が入ったユニフォームの「TABUSE」が躍動する。日本人がNCAAでプレーするそのトピックはニューヨークタイムスでも紹介された。ディビジョンⅠの大学も参加するトーナメントで準優勝するなど、充実した日々を送った。

「2年目にケガをしてバスケができない大変さはありました。それでもトレーナーをはじめ周りの人がいろいろと協力してくれてありがたかったし、3年目にようやく出られるようになってバスケがどれほど自分にとって大切なのかも分かった。ハワイでの日々は、すべてが僕にとっていい経験になりました」

(次ページに続く)

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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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