2019.1.6
田臥勇太の情熱は自分と人を動かし、ラッキーを引き寄せてきた
中村憲剛があこがれた同世代スター、田臥勇太とバスケの出合い
僕らの世代の2大スター。
Jリーガーの中村憲剛は、そう表現する。
一人は野球の松坂大輔、そしてもう一人がバスケットボールの田臥勇太。
15歳でテレビCMに起用され、秋田・能代工業時代には3年連続でインターハイ、国体、ウィンターカップを制して史上初の9冠を達成。『週刊少年ジャンプ』で連載されたバスケ漫画「SLAM DUNK」の人気も追い風となって、カッコいいスポーツのカッコいい象徴となっていく。
カッコいいのは「外面」よりも、むしろその「内面」にある。
173cmはバスケの世界では小柄だ。それでもスピードとテクニックで日本人初のNBAプレーヤーとなり、その後も挑戦を繰り返してきた。
大きな選手に弾き飛ばされようが、大きな夢にはね返されそうが、折れない、めげない、あきらめない。昔も、今も。
日本に帰国してからはリンク栃木ブレックスの中核を担い、2016~17年シーズンに誕生したBリーグの初代王者にもなった。38歳、今なお田臥勇太は日本バスケ界の顔として走り続けている。バスケが好きで好きでたまらない。彼の隣にいるだけで、それは十分に伝わってくる。
小学2年生から始めるバスケとの出合いは、まさに運命だった。
母親が経験者で3つ年上の姉もバスケをやっていた。だがそれは単に「出合う」きっかけであって、「はまる」きっかけではなかった。
すぐにはまった。
父親があるゲームを録画してくれていた。
1988年、ロサンゼルス・レイカーズとデトロイト・ピストンズのファイナル第7戦。スーパースターのマジック・ジョンソンが中心になって奏でるファストブレイク(速攻)に目を奪われ、アイザイア・トーマス率いるピストンズを振り切って優勝した興奮は、いつ観ても、何度観ても小学2年生の少年の目には新鮮に映った。
「父親がこのゲームセブンをたまたま撮ってくれていたんです。ラッキーでした。本当にビデオテープが擦り切れるまで、繰り返し観ましたね。このゲームばっかり(笑)」
生まれ育った横浜市金沢区の地域は、バスケが盛んだった。田臥少年はソフトボールでキャッチャーもやっていたが、バスケ一本に絞っていくことになる。
バスケがそこまで好きなら、と父親が家の前に手づくりのバスケットゴールをつくってくれた。試合に出ようが出まいが、両親がいつも駆けつけてくれてビデオで撮影してくれた。
朝食を摂りながらゲームセブンを見て登校し、授業が終わればバスケットボールの練習、家に戻ったらバスケット雑誌を読みふけった。NBAの服を着込み、誕生日に買ってもらうのはバスケットシューズ。気づけばボールはいつも手元にあった。バスケ、バスケ、バスケの毎日。好きこそ物の上手なれ、を地で行くバスケ少年であった。
「これもラッキーなんですけど、通っていた小学校のバスケが強くて3年、4年、6年と全国大会に出ることができたんです。3、4年は控え組でしたが、みんなうまくて。でもやりながら、感覚的にバスケは得意だなって思うことができました。楽しかったし、のめり込んでいく自分がいました」
中学でもバスケット漬け。このときは何か大きな夢を描いていたわけではない。NBAに日本人選手がプレーすることなど夢のまた夢だった時代、国内にプロのバスケットリーグもなかった時代。うまくなりたい、その一心だった。中学3年で全国大会に出場して3位となり、ベストファイブにも入った。
「高校の進学も、最初は地元の神奈川県内で強い学校を目指していたんです。でも県で優勝できて関東大会に出たので、関東に広げて考えるようになったら、次に関東で優勝できたので全国に目が向いて。そんなときに能代工業から(進学の)話があって“行きたい!”となったんです。ちょっとずつというか、一つひとつ目標が上がっていく感じでした」